関係あるとみられるもの

ルーミア(東方紅魔郷)
アリス・マーガトロイド(東方妖々夢)
八雲藍(東方妖々夢)
八雲紫(東方妖々夢)
メディスン・メランコリー(東方花映塚)
鍵山雛(東方風神録)
東風谷早苗(東方風神録) 

住所

五箇山菅沼集落 富山県南砺市菅沼436(JR城端線「城端駅」より徒歩4時間 ※城端駅から路線バス有)
五箇山相倉集落 富山県南砺市相倉352(JR城端線「城端駅」より徒歩3時間 ※城端駅から路線バス有)
人喰谷     富山県南砺市大鋸屋(JR城端線「城端駅」より徒歩2時間半 ※国道304号、五箇山トンネルそば)
人形山登山口  富山県南砺市(JR城端線「城端駅」より徒歩4時間 ※中根平登山口)
八乙女山登山口 富山県南砺市井波外二入会(JR城端線「城端駅」より徒歩2時間半 ※開城寺公園から林道に入る)
※八乙女山から見た南砺市

五箇山(ごかやま)

※五箇山相倉集落

富山県の南西端、岐阜県との県境に近い地域をいう。かつては平村、上平村、利賀村といったいくつかの村々の総称だったが、現在は全域が富山県南砺(なんと)市に属する。
五箇山には「菅沼(すがぬま)」「相倉(あいのくら)」という2つの合掌造り集落が現存し、約80名の住民が生活している。

平成7年12月より岐阜県の白川郷(しらかわごう)並んでユネスコの世界遺産に登録されている…が、知名度としては白川郷とかなり差をつけられているような気がする。
五箇山と白川郷は、後述する「人形山(にんぎょうさん)」を挟んで対峙している。

ちなみに「合掌造り」とは、チガヤ又はオオガヤで葺(ふ)かれた扠首構造(逆V型に連結した木材を横棒で支える、つまり「A」ような形)で、角度が45度以上の角屋根を持つ木造日本家屋、
と大体定義されている。屋根が急角度なのは豪雪地帯のドカ雪に対応するためだが、必然的に屋根がデカくなるということでもあり、そのデカさこそ合掌造りの最大の特徴とも言える。
また、急角度の大屋根でかつ居住にたえられるようにするためには、建物を縦に大きく作らざるを得ないので、合掌造りの家の中には最大で5階建て約35名が生活していたものも存在する。

まるで毛羽立っているかのように、どこか動物的ぬくもりのある巨大茅葺(かやぶき)屋根の威容は、藍さまのもふもふっとしたしっぽを間近で見た時の威圧感に似たものを覚えるのではないだろうか。
まあ藍さまのしっぽを間近で見たことがないけど。

※もっふもふ。

五箇山の名の由来は、この一帯が赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷の5つの谷からなるためであると言われる。
全く余談だが、山間の部落を5つをまとめて「1村」とし、「五箇村」だの「五箇荘」だのと名づけることは全国的に非常によく見られる現象である。
一説には「五穀豊穣」や「五人組」など日本人、というか東洋人は5を一まとめとするのが何かと好きなんだらしい。便利なのか?色々と。

また、五箇山集落の始まりは、西暦1183年に倶利伽羅峠の戦い(木曽源氏源義仲と平氏との戦い)で惨敗した平氏一門の残党が五箇山へ落ちのび、隠棲したものとされる。
物的証拠や確かな系図は無いものの、一部の民家には家紋として痕跡が残されているとも言う。また、南北朝の争乱期に南朝の遺臣らが流入し地域文化が形成されたという説もある。
西暦1950年代に編纂された『五箇山誌』によると、五箇山は吉野朝(南朝)の武士によって開拓され、養蚕・和紙製紙・仏教らも吉野朝の遺臣や後醍醐天皇の第八皇子、
宗良親王によって五箇山に伝えられたとする説があると言う。しかし、この手の平氏落人説や南朝落人説は日本全国津々浦々の山間地域に存在する。
仮にそれらの伝承が全て正しいのなら、平家や南朝の武士らは「落ち延びすぎだろ!常識的に考えて。」ということになる。

故に、これら落人説がやたらめったらあちこちの集落で伝わっている理由として、
中世以降数多く存在した「聖(ひじり)」とよばれる半僧半俗の僧侶らが全国を放浪する中で山間の集落に立ち寄っては
「皆さんは今でこそ僻地に身をおいているが、元は平氏や貴族といった高貴な身分の方の子孫なんですよ」などと吹聴して里人を喜ばせ、
食料、路銀、若い娘さんなどをお世話させていたのではないかという邪説も存在する。

まあ、五箇山に限らず大切に受け継がれてきた地域の伝承にケチつけて回っても何ら得は無いので、伝承は伝承として楽しめる人が人生の勝利者だと思う。

西暦1543年ごろに日本に鉄砲が伝わると、戦国の世情ともあいまって国内で火薬の需要が急騰した。
そんな時代において、五箇山では人造煙硝による火薬製造を行っており、その品質は日本一ともうたわれた。

越中を前田家が掌握すると、貴重な火薬産地を保護し製法を隠匿するために厳重な警備が敷かれるようになり五箇山は他の地域の人々にとって自然条件のみならずより近づきがたいものとなった。
そのため、この頃になると平地民らの間では五箇山を仙境視するような声も聞かれるようになり、以後少なくとも江戸時代後期まで一部の間では理想郷伝説として語り継がれていたようである(津村正恭『譚海』など)。
実際の五箇山は、戦国の終焉と火薬需要の低下に伴って、江戸時代以降は加賀藩の「流刑地」として利用された。高崎事件で流された高崎半九郎や加賀騒動で流された大槻伝蔵などは非常に有名である。
また加賀騒動に巻き込まれ流刑となった「お小夜」という若い遊女は、やがて五箇山の若者と恋に落ちて自害したとされるが、その短い生涯の中で数多くの民謡を五箇山に伝え、あるいは生み出したと言う。
そのため現代でも五箇山は「民謡の里」として知られ「こきりこ節」「麦や節」「古代神」ら多くの民謡が歌いつがれている。

加賀藩政下において流刑地とされていた間は、五箇山に至る峡谷に端をかけることが許されず、葡萄の蔦(つた)で作った縄で罪人を乗せた籠を通したという伝承が今に残っていることから、
ほぼ陸の孤島的な環境下におかれていたものと思われる。

東方projectでは、西暦2005年に刊行された『東方紫香花』中の「白詰草と約束(葉庭著)」において八雲紫及び八雲藍が居住する住宅が描写されているが、
その住宅がどう見ても合掌造りである。しかも4階建て。わりと西洋風な面持ちの二人が日本の局地的かつ伝統的な無駄に豪華な家屋に居住している様相はどことなくチグハグで愛らしい。
『東方紫香花』自体は複数作家によるアンソロジーであり同書内にZUNが寄稿した『六十年ぶりに紫に香る花』以外は一次創作と看做されることはないが、
Zun氏が直接関与している二次創作集であることをかんがみ、東方にゆかりがあるものとして付記しておく(ダブルミーニング)。

※微妙なセンス

人喰谷(ひとくいだに,ひとくらいだに)

※人喰谷。現代ではあまり通行する人はいない。

 五箇山の北、国道304号線沿いにある峡谷。旧五箇山街道の中で最難所の一つとされた唐木峠から朴峠へ至る山道の西側に位置する。
「人喰谷」という不気味な名称は、底が見えないほどに深い谷間が、まるで人間を食らうかのようである様子から名づけられたとされる。
このように名づけることで、昔の人々は旅路の危険性を感情豊かに表現していたのだろう。なお、「まるで人間を食らうかのよう」ではなく、
「本当に人間を食らった」という伝説も残されている。

ある冬のこと、五箇山を出たボッカ(隊商)が雪崩に飲まれて谷間に転落し、行方不明となった。
その翌春、人喰谷の下流にある二ツ村にボッカたちが使っていたネンジョウ(杖)だけ人数分きっかり流れついたが、行方不明となったボッカらはついに一人として発見されなかった。

…というぞっとしない話である。詳しくはこちらへ。光の届かない深い闇と、人を喰らう凶暴性は、東方projectにおいてルーミアを連想させるものであろう。

※谷の反対側まで切り立った道が続く

人形山(にんぎょうさん)

※五箇から見た人形山

岐阜県と富山県の県境にある山。標高1,726m。日本三百名山、新日本百名山及びぎふ百山の一つ。
南方に位置する三ヶ辻山らとともに「五箇山」と「白川郷」をへだてている山でもあるが、現存する登山道は五箇山方面からのものしかない。
7世紀~8世紀ごろ泰澄によって開山されたと伝えられており、白山信仰(主に修験道)の修行場として知られてきた。
その名残は、三ヶ辻山に分岐する手前の標高1,618m前後にある「宮屋敷跡」の地名に見ることが出来る。
宮屋敷の名のとおり、かつてはここに白山権現堂(神社)があったとされており、今でも鳥居が建てられている。

全くの余談であるが、深い山中に入ると長い年月の経過に伴って神社やお社が消失・撤去された後にぽつねんと古い鳥居だけが取り残されているのを見ることがある。
宮屋敷跡のように史跡や伝承を祀るために近年建てられた鳥居を仮にメルクマール(目印)と言うならば、お社が消滅した後も鳥居だけが取り残されるタイプは、超芸術トマソンに近いものを感じる。

人形山の名の由来は、冬~春期にかけて五箇山からこの山の中腹を眺めると、人形のような雪渓が二つ並んで見られると伝えられていることによる。
確かに、人形山の中腹には特徴的な雪渓がはっきりと現れ、これを眺めれば眺めるほど、両手を広げた二つの人影が楽しげに駆けているように見え(パレイドリア効果)、非常に不気味である。

ちなみに、ここで言われる「人形」とは、ロンドンロシアオルレアンのあの立体偶像的な「人形」ではなく、呪術などでよく用いられる依代の「人形(ひとがた)」のことを言っているんじゃないかと思う。
また、人形山には白山信仰と絡み「母親の病気を治してくれた人形山の白山権現にお礼参りに行った幼い姉妹が、雪山で遭難して二度と帰ってこなかった」という、救いようのない悲談が残されている。
詳しくはこちら

東方projectにおいて、人形山はなんか直接関係があるわけではない。
でも、人形好きなあのキャラとか人形そのものであるそのキャラとかいるわけだし、雪渓の見られる時期に南砺市を訪れた際には、是非見に行ってみればいいじゃない!

※人形山の雪渓。写真は案内板を撮影したもの。


八乙女山(やおとめやま)

※「道の駅井波木彫りの里」付近から見た八乙女山。

五箇山の北方、南砺市市街地の南西にある山。標高756m。白山、人形山等々々と同様に泰澄が開山したとされる。
これらの伝承が全て正しいのなら、泰澄はちょっと開山しすぎである。もはやクライマーなのか宗教家なのかよくわからない。
清々しい空気を味わいたいとか、体力をつけたいとか、アスレチック大好きとか、そういう自分自身の肉体的充足を越えて山を畏敬する気持ちがあれば、クライマーも宗教家もそんなに差異はないのかも。

八乙女山は文化・自然豊かな南砺市を代表するほどに美しい容貌と格式高い伝統に恵まれている。
そのためか、南砺市が西暦2004年に平成の大合併によって誕生した際には、市名を「八乙女市」とする案が割とガチであったらしい。

八乙女とは、神事において神楽や舞を奉納する8人の乙女(巫女)のことを言う。
しかし、「八」とはそもそも古代より自然数としての意味だけではなく、「ものすごく数が大きいこと」を現す聖数でもあった。
例えば「八島」、「八雲」、「八坂」、「八意」、「八咫烏」、「八重桜」、そして「八百万」などは、「八つの島」とか「八つの雲」とか「800万柱の神」とかという意味ではなく、
「数えきれないほど多くの島」、「際限なくわき出でる雲(出雲)」、「全世界のあらゆる神々」という意味である。このことについては、東方projectの『東方香霖堂』においても言及されている。

故に、「八乙女」とは「八人の乙女(あるいは清らかな処女、巫女)」という意味だけではなく「あまねく乙女達」と解釈することもできる。
後者の解釈をとるならば、「八乙女山」とは「八人の乙女の山」ではなく「たくさんの乙女達の住まう山」という意味にもなろう。幻想郷みたいやね(ニッコリ)。

八乙女山の山頂付近には「風穴」及び「風神堂」と呼ばれる洞穴と祠が存在する。八乙女山の属する井波地区は、古来から強風の吹く地域であった。
風の良し悪しは農作物の成長と収穫に大きな影響を与えるため、この地区では悪風を抑え「五穀豊穣」を願うために、八乙女山の風神様に神楽や和太鼓の演奏を奉納する伝統が現代まで伝えられてきたものである。
伝承によれば、悪風に悩んだ里人の悩みを聞き、穀物の成長を阻害する春先の風を泰澄が「風穴」と呼ばれる穴に封印したのがはじまりとも言われる。
東方クラスターの皆さんならもうお分かりかと思うが、「風神」「風穴」「五穀豊穣」といったキーワードはすべて東方projectにおいて「妖怪の山」ないし「守矢神社」につながってくるものである。

※南砺風神録

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最終更新:2015年09月15日 07:43