(1)

「ごめんね、シェリ……でも、もう一緒にいられないの。ごめんね……本当にごめんね……」
「まって!行かないでママ!」「ママ!!」「ママ!!!」「っ…………ママぁ……」
また、同じ夢だ。一体何度見たことだろう。眠りに落ちる度に、メルヘンしょうじょのシェリは母親との別れの夢を見る。
何度、夢の中で叫んだことだろう。何度、母親の手を引いたことだろう。それでも一度も夢の結末は変わったことはない。
その場に崩れ落ちて泣くシェリを残して母親は行ってしまう。

そして安いアパートの一室で彼女は目覚める。
酔って眠った父親のイビキはシェリに結局何も変わりはしないのだと嘲笑っているようだった。
初めてあの夢を見た時、自分は泣いていたのだろうか、とシェリは思う。
毎日、同じ夢を見ればもう慣れてしまう。涙だって枯れてしまう。
ただ、摩耗していくだけだ。

吐瀉物の滓がこびりついた洗面台の鏡でシェリは己の顔を見る。
無表情な己の顔は、喜びも怒りも哀しみもどこかに零してしまったようで嫌いだった。
だから、人差し指で己の口の端を引き上げる。
(笑えるわシェリ、大丈夫よ)
そして、心の中で呪文を唱える。
そうやって、自分を誤魔化していくしかないのだ。

足元に転がっている酒瓶を踏まないように彼女は家から出る。
音を立てれば父親が目覚める、朝に起きてしまった父親は気が滅入るような声で泣くのだろう。
酒瓶を踏んで転んでしまおうものなら、目に見える部分に傷がついてしまう。
表面上の関心しか寄せない教師やクラスメートに関心を寄せられるのは嫌だ、もしかしたら問題が解決するんじゃないかと期待してしまう自分も嫌だ。
自分で手首を切り、その結果どうなったかを彼女はしっかりと記憶している。
同情や説教、下卑た関心が欲しいのではない、自分を助けてくれる手が欲しいのだ。
そして、その手が――少なくとも学校にないことを知っている。

彼女の心とは裏腹に、空は雲一つ無い綺麗な青色だった。
もしかしたら、空には王国があって、自分はその王国のお姫様なのかもしれない。
時々、シェリはそんなことを考える。

本当はもっと幸せになれるんじゃないか、今いる場所こそが間違いなんじゃないか、誰かが私を助けてくれるんじゃないか。
都合の良い空想【メルヘン】だけが時々、彼女を現実世界から逃してくれた。
だから、彼女は傷跡を念入りに隠し、笑顔を作り、そして童話のような服を着る。
いつかシンデレラやグレーテルになれることを夢見て。

気がつくと既にチャイムが鳴っていた、急がなければならない。
潜り抜ける路地裏の中、彼女はあるものを発見した。
それはダンボールの中でじっと身を竦めていたロコンだった。

――ごめんなさい、この子は飼えません。誰か可愛がってあげて下さい。

ダンボールの表面には、女性的な字体でそう書かれていた。
ダンボールの中には、毛布とポフレが何個か入っている。

だが、関係ない。
再び、シェリは走りだす。
急がなければ学校に遅刻してしまう。
ただでさえ成績は良くないし、家は碌に勉強が出来る環境じゃない。
これ以上、教師に傷を見せるわけにはいかない。

吐瀉物を飛び越え、ポリバケツごと捨てられたゴミを避け、眠り呆けている酔っぱらいを跨ぎ、
「キュウーン」
ロコンがか細く、しかしはっきりと鳴くのをシェリは聞いた。
動きが止まる。まるで引力がロコンから発せられているようだった。
学校へ向かおうとする力とロコンの引き寄せようとする力の板挟みになり、シェリは動けないでいる。

誰かが拾わなければ、ロコンは死ぬ。
だが、この路地裏にいる誰かなどという者は、大抵は酔っぱらいか後ろめたいものを隠しに来た人間だ。
大多数はロコンなぞどうでもいいと思っているし、大多数に入らない人間はロコンを拾い上げてコンクリートに叩き落とす者か、そのままロコンを売ってしまう者だろう。
ロコンの震える体を毛布に包んで優しく抱き上げてやれる者は、多分シェリしかいない。
きっと、学校が終わってからでは手遅れになる。

でも、だ。
シェリにロコンを育ててやることは出来ない。
自分の食事すら父親の気分次第で出ないことがあるのに、ロコンに食事を食べさせてやる余裕はない。
当然、モンスターボールを買うお金も無い。シェリの家にある金というものは大抵は酒屋に流れることになる。
だからといって、狭い家の中にロコンを隠せるスペースは無いし、近所にだって隠せるような場所はない。
父親に相談して、何とかするなんていうのは選択肢にすら入っていない。痣と痛みを増やすだけだ。

「ごめんね……」
最初からロコンなど見なかった、そう思い込んで学校へ行けば良いように思えた。
一歩を踏み出せば良い、そうすればロコンの引力から解き放たれる。
一歩、たった一歩で良いのだ。
だというのに。

「ごめんね、シェリ……でも、もう一緒にいられないの。ごめんね……本当にごめんね……」
動けない原因は、ロコンを見捨てていく罪悪感だけではない。
これは何度も夢で見た光景の再現だ。
ただ、自分が見捨てられる立場から見捨てる立場に変わったというだけの。

「ごめんねじゃないよ……ママ……っ」
何を言われようが、結局、捨てられた者は呪いの様にそれを引きずっていくしかない。
だから、捨てられたくなかった。
捨てられないために、拾われないようにした。

空想【メルヘン】が必要だった。それは決して、自分を捨てたりはしないからだ。

「……ママ」
学校へ行く気はシェリの中から失せていた。怯えさせないように、静かにゆっくりとロコンのダンボールまで歩いた。
そしてロコンの体を毛布で優しく包み、そして抱きしめた。

「私が、アナタのママになってあげる」
もう一度、夢をやり直そう。シェリはそう思った。
決して娘を捨てることのない母親が欲しかった、穏やかな思い出を夢に見たかった。
けれど、それはもう――シェリには手が届かないものだ。

だから、目の前の捨てられたロコンに与えよう。
自分の与えられるだけのものを何もかも与えよう。

本来あるべきだった――ママを、つくろう。

抱きしめたロコンの体は、今までのどんな思い出よりも暖かった。

その日、シェリは街から消えた。


(2)

「ルキ……ルキィ!」
酒に酔った父親は、妻の名を叫びながらシェリを殴り、蹴り、暴言を吐いた。
ルキが家を出るまでは、彼はシェリに指の一本も危害を加えなかった、いや――家を出てからも、と言うべきだろうか。
彼女はルキの名を叫び、シェリを殴り、そして酔いが覚めて、そのことを後悔して、シェリに謝るのだ。
「シェリ、ごめんな……本当はお前のことを愛しているのに、ルキが……いや、ごめんな、本当にごめんな……許してくれ、」
シェリは父親にとってはルキの代用品だったのだろう。
本当は彼もルキを殴りたいのだ、しかし既にいなくなってしまったからよく顔の似たシェリを殴る。
そして、自分が殴りたかった相手は娘では無いことに気づき、謝り、泣く。
何度、シェリは逃げようと思っただろうか。
それでも、彼は父親で――泣いている時だけは、優しかった頃の父のように見えた。
そしてシェリが逃げてしまえば、彼は今以上に壊れてしまう。
彼はシェリを家に繋ぎ止める鎖だった。

だが、ロコンが――いや、ルキと名付けられた彼女がその鎖を断ち切った。
父に向けていた愛憎の内の愛は、全てルキに向けられた。
残る憎悪はただ一言、あんな男、壊れてしまえ。とだけ言う。

だから、シェリは家を離れ、旅を始めた。
ポケモントレーナーならば、少女であろうと旅をするのはおかしいことではない。
そして、路銀を稼ぐこともロコンが一緒にいれば容易いことだ。
むしとりしょうねん、たんパンこぞう、とにかく弱そうなトレーナーを狙った。
得られる賞金は少なかったが負けることは恐ろしかったし、自分より強い人間に暴力で勝敗を有耶無耶にされることが恐ろしかった。
彼女は初めての賞金でモンスターボールを買った。ロコンの家だ。

旅に出て良かった、とシェリは思う。父親にも学校にも邪魔されることなく、ルキと一緒にいることが出来る。
それに愛しあう家族が常に一緒にいれる、こんなに嬉しいことはない。

「ルキ!ひのこ!」
今日もまた、シェリはポケモンバトルで賞金を稼ぐ。
ルキ以外のポケモンは捕まえていない。
ルキ一匹だけで十分であるし、ポケモンの数の分、愛情は薄れるように思えた。

「よくできたわねルキ!えらいわ、大好きよルキ!本当に大好き!」
賞金を受け取った後は周囲の目も気にせず、ルキを褒めた。
ポケモンバトルで戦うのはルキだ、シェリはただ指示を出すことしか出来ない。
だから、なるべくルキが傷つかぬように指示し、戦いが終わったら精一杯労うことに決めていた。

「ルキ、傷……」
そして、もう一つ。
ルキが戦いの中で傷ついたのならば、その痛みを分け合おうと。
ルキの右前足に負ったダメージを発見したシェリは、カッターナイフを取り出し、自分の右足を刺した。

「ルキ……ごめんね、痛くなかった?ごめんね?ダメなママでごめんね。許して、ママを許して……」
突如行われた、狂人じみた彼女の行動。
周囲の人間が、先程まで戦っていたトレーナーが、彼女の元へ向かう。
だが、彼らの声は彼女の耳に入らない。彼らの姿は彼女に見えない。

「ごめんね……ごめんね……」
あの出会いの時のように、再びルキを抱き上げて彼女は歩き出す。
誰一人として、彼女たちの世界【メルヘン】に立ち入ることは出来なかった。

「ルキ……」
ポケモンセンターは泊まるには煩すぎた、かと言って彼女は野宿のための道具を持っていなかった。
彼女は新しい街に辿り着く度に、屋根のある静かな場所を探し、そこを拠点とした。
そこは船の多い街だった。彼女は使われていないボロ船に無断で入り込んだ。
ゆらゆらとゆりかごのように揺れる船の中で、ルキを抱いてシェリは眠った。
どこからか子守唄が聞こえるような気がした。

それは、母親の声のように思えたし、ルキが歌っているようにも思えた、
あるいは、自分が歌っていたのかもしれない。

「ママ……ママ……」
一筋の涙が頬を伝った。
旅に出てからシェリは夢を見ることは無くなっていた。
ただ、ぬくもりだけを抱いて眠った。



(3)

この街から船で別の地方に出ようとしたが、船のチケットは想像の二十倍は高かった。
「しょうがないね、ルキ」
「キュウーン」
むしとりしょうねんや、たんパンこぞう相手の賞金では数年はかけないと貯まらないだろう。
父親のいるこの地方は嫌だ、カントーのように他の地方まで歩いていければ良いのに、とシェリは思う。

「今度は温泉に行こっか、体洗ってあげるねルキ」
だが、どうにもならないものはしょうがない。歩けるだけ、歩くしかないだろう。
もしかしたら、他の地方まで行けるとりつかいと知り合えるかもしれない。
それに温泉は楽しみだ。まるで家族旅行のよう――いや、二人なら家族旅行そのものだ。

「楽しみだね」
「キュウーン」
嬉しそうに鳴くルキを見ていると、シェリの心も弾んだ。

街を出て、歩く。
この街に来る時も思ったが、サイクリングロードの下を歩いていると不公平さに嫌気が差す。
サイクリングロードは草むら一つ無い整えられた道路だというのに、自転車の無い者が歩く下の道路は未舗装だ。
自転車が無いからこそ優遇してくれるべきではないか、と思う。
次々と出現する野生ポケモンは得にならないので相手にしない。

「ゴホッ……」
突如、何の前触れもなく咳が出た。
「ゴホ、ゴホ、ゴホッ……」
こみ上げてきた嘔吐感にその場で崩れ落ちる。不安気にシェリを見るルキに対し、シェリは気丈に笑い返す。
「ウェッ……」
だが、込み上げる嘔吐感がすぐにその笑みを壊した。
何度もその場に吐いた、いつの間にか発熱していた。

自罰の傷口から入り込んだ雑菌か、寝床の劣悪さか、賞金の少なさから来る食事の不安定さか、あるいは全てか。
いや、原因を気にしている場合ではない。

「ル……キ……」
ふらつく足で懸命に立ち上がり、再び姿勢を崩した。
ここで死んでは、ルキを捨てることになってしまう。
進むか戻るか、どちらの方が近いだろう。
とにかく、行かなければ。

「ママ……ママ……」
結局、立ち上がる事は出来なかった、シェリは這ったままに進んだ。
不安気に己を見るルキのために進みを止めては、シェリは笑った。
大丈夫、だとか。平気、だとか。そういう言葉を言いたかったが、朦朧とした意識はただ、思い出からアトランダムに言葉を発するだけだった。

「殴らないで……ごめんなさい……」
不気味なほどに静かな日だった、誰一人としてすれ違う人間はいなかった。
それにくわえて、雨が降り注いだ。
冷たい雨が、余計にシェリの体力を奪う。
それでも、シェリは己のことなど考えてはいなかった。
ただ、朦朧とした意識の中で、ルキをモンスターボールに戻さなければならないという命令だけがぐるぐると回っていた。
それでも、実際にモンスターボールを動かすだけの体力は最早残されていなかった。

突如、世界が光に包まれた。雷雨だった。
光の中にルキは人影を見た。
助けを呼ばなければならないと、ルキは思った。

人影に向かって駆け出すルキを、シェリは止められなかった。
朦朧とした意識が、久々にシェリに夢を見せていた。

「行……か……な……い……で……マ…………」
「キュウーン!!!」
人影に向かって駈け出したルキが悲痛な叫び声を上げると同時に、遅れてきた轟音が周辺に響き渡った。

朦朧とした世界【メルヘン】の中にあるシェリにもはっきりとわかった、
それは人間によって蹴り上げられるルキであり、ルキを蹴り上げる父親の姿だった。

「シェリ、お前まで……お前まで俺を馬鹿にしやがって!!」
蹴り上げられ、宙を舞い、そして再び地に落ちたルキを父親は何度も何度も踏みつけていた。
「俺より、俺より、大事か!?こ、このケダモノが!」
いつも漂わせていたアルコールの臭いがしない、もしかしたら酒を止めたのかもしれない。
と、どこか他人ごとのようにシェリは思った。

その代わりに、父親は完全に狂気に支配されているようだった。

(あぁ、やっぱり壊れたんだ……こんなところまで追ってくるなんて…………)

ルキを助けなければ、とシェリは思う。
だが体は全く動かなかった。

「ルキ、ルキ、ルキィ!俺を見下して……お、俺を!やめろ!やめろよォ!」
最早、父親自身も誰と話しているのか、何を話しているのか、わかっていないのだろう。
ただ、妄執の結果としてルキをボロ雑巾のようになっても踏み続けていた。

「キュ……ウーン……キュウー……ン」

何故、ルキが反撃をしないのか。
何故、ルキが逃げ出さないのか。

ただ、鳴き続けるルキを見て、シェリは思った。

(パパしかいないもんね…………)

周囲に人はいない。
シェリを助けられる人間は父親しかいない、だから父親がシェリを助けるまでただ打たれ続けるままになっているのか、そうシェリは理解する。

(いいよ……逃げて……ル……)

「おっ、おっ、おおおお俺だってやれば出来るんだ!!」
勢いの良い蹴りが、ボールのようにルキを弾ませた。
ルキが、シェリの隣に倒れこむ。

「シェリ……シェリィ!大丈夫かァ?痛くないかァ?パパを大事にしてくれよ……俺が悪かった、俺が……い、今……病院に…………」
思う存分に暴れて気が済んだのか、あるいはシェリの容態に気づいたのか、父親の目から狂気が消えた。
やはり、ここにいるのは哀れな男だった。

シェリは何も考えることは出来なかった。
目に入ってくる光景には黒いもやがかかっていたし、聞こえてくる音は全て意味を理解することは出来なかった。
それでも、シェリははっきりと音を聞いたような気がした。

「この子が、元気に生まれてきますように……」



「……ママ」
「俺を馬鹿にするんじゃねえエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!!!!!!!」

父親の蹴りがシェリを襲おうとしたその時、シェリの意識は消えた。


「キュウーン!」



(4)










「人を殺したポケモンは……すみません、諦めて下さい。どうにもならないんです……」








.
(5)

殺し合いに巻き込まれるまで、シェリは何もしていなかった。
ただ、病院のベッドに横たわり、白い壁を見ていた。
ルキはいなくなったが、もう夢を見ることはない。

そして、殺し合いに巻き込まれ。
あの街にあったものと同じ灯台を見て、あの日以来初めて、シェリは泣いた。

支給されたポケモンはニドキングとニドクインの二匹だった。
シェリはニドキングにパパというニックネームを付け、ニドクインにママというニックネームを付けた。

「灯台を壊して!」
シェリはニドキングとニドクインに命じた。パパもママもシェリのいうことを聞いて、しっかりと灯台を破壊してくれた。

何もかも辛かった。

「人も!物も!思い出も!全部!全部!全部壊して!みんな!みんな大っ嫌い!!」

ただ、悲しかった。
何をしても、何も戻らないことだけがわかった。

だから、ただ――何もかも、壊れてしまえばいいと思った。

もう彼女が夢【メルヘン】を見ることはない。

【B-7/東の灯台/一日目/日中】


【メルヘンしょうじょのシェリ 生存確認】
[ステータス]:健康、憎悪、絶望、悲しみ
[バッグ]:基本支給品一式、ランダム支給品×3
[行動方針]
1:何もかも壊してしまいたい

◆【ニドクイン(ママ)/Lv50】
とくせい:???
もちもの:???
能力値:???
《もっているわざ》
????
????
????
????

◆【ニドキング(パパ)/Lv50】
とくせい:???
もちもの:???
能力値:???
《もっているわざ》
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第23話 そんなことより釣りをしようぜ 第24話 メルヘンメン・ヘル 第25話 ただ疾走する

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最終更新:2014年11月24日 19:50