成瑨は、後漢後期の人物。

情報

成瑨
幼平
本貫地 弘農郡
幼年評 (おさな)くして仁義を脩め、學に篤し。清名を以って見ゆ。
起家 孝廉
官歴 郎中 南陽太守
南陽太守は岑公孝(岑晊)、弘農の成瑨はただ座して嘯す。
死去 延熹九年(166)、中常侍侯覽、張汎の妻をして上書しその冤を訟さしむ。帝は大いに震怒し、成瑨を徴す。九月、棄市


事跡

 (おさな)くして仁義を修め、学問に篤く、清廉なことから名声を現した。
 孝廉察挙され、郎中を拜し、南陽太守に遷った。
 南陽郡は古くから豪強が多く、中官黄門が境界に磐互*1していた。成瑨は下車(着任)すると、威厳を振るうことを欲して、名士岑晊に請うて郡の功曹に任じた。また張牧賊曹史とした。成瑨は心を岑晊、張牧に委ね、善を褒めて違を糾し、朝府(郡府)を肅清した。
 この頃、汝南太守の宗資もまた功曹の范滂に政事を任せており、二郡ではこれを、
「汝南太守は范孟博(范滂)、南陽の宗資は画諾を主る。南陽太守は岑公孝(岑晊)、弘農の成瑨はただ座して嘯す」
 と謡った。
 郡治宛県には富賈(大商人)の張汎という者があり、桓帝美人の外親*2だった。張汎は雕鏤玩好の物の製作が巧みで、中官に頗る賄賂を贈り、これによって顕位を得て、その伎巧を恃みに権勢を縦横ほしいままにしていた。
 桓帝延熹八年(165)?*3成瑨は岑晊・張牧の勧めで張汎らを収捕した。張汎は赦令に遇った*4が、岑晊はこれを無視して誅し、併せてその宗族賓客を収監して二百余人を殺し、全てが終わってから朝廷に奏聞した。
 中常侍侯覽が張汎の妻に上書させてその冤罪を訟えさせた。桓帝は大いに震怒し、成瑨は徴された。
 陳蕃劉矩劉茂が共に諫めたが桓帝は悦ばなかった。
 延熹九年(166)九月、下獄死棄市ともいう。


年表



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関連項目・人物

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最終更新:2016年04月01日 06:13

*1 相互に連結。

*2 母方の親戚

*3 成瑨の処刑直前の大赦令は延熹八年三月なので、張汎の収捕はそれ以前となる。

*4 大赦の時期に巡り合わせた?