文化

資本と文化の関係


 21世紀は資本家の時代でした。
 文化は投資家の作る流れに引きずられるメインストリームと、それに反抗するカウンターカルチャーに大別され、カウンターカルチャーが大きくなるとメインストリームに吸収される運動を続けた時代でもあります。

 そして、カウンターカルチャーが無料のかたちで膨らんだ時代でもありました。
 ただ、無料のカウンターカルチャーは、常にベンダーにうさん臭い業者が紛れ込んでいました。無料の文化は、ユーザー自身を食い物にする悪徳業者との戦いでもあり続けました。

 若い世代はまず無料のカウンターカルチャーになじみます。そして、それが成長して消費者となる頃には、高額の宣伝費やインフラ費をかけたメインストリームにカルチャー自体が吸収されていて、文化消費者として養成されているという、サイクルが回っていました。

 これに対して大きなインパクトが訪れるのは、2090年以降です。
 宇宙居住者たちと純粋に距離が離れることによって、流行に断層ができるようになったのです。

 22世紀初頭の段階では、まだ宇宙居住者たちが超高速で洗練されたサイクルを持つ地球の流行に憧れている状態です。まだ宇宙は文化的に、巨大な辺境なのです。
 けれど、この状況は22世紀中に逆転する可能性があるとも言われています。

 このとき、文化ビジネスは、地球で21世紀に築いていたサイクルをそのまま回すことは不可能であると計算されています。
 このため主に地球資本によって新しい収奪モデルが計算され、試行されています。



人間文化の状況


 22世紀初頭の文化は、量的に氾濫しています。

 この一因は、アートやエンタテインメントの膨大な生産期だった20世紀中盤から21世紀初期の作品の多くが著作権切れを起こしていることです。
 視覚と聴覚に訴えるのがもっとも一般的であることは、20世紀中盤からそれほど変わらないため、無料の古典は22世紀人類にも観賞に耐えるものがたくさんあります。
 アーカイブは愛好家やお金のない若い層以外には無視されることも多いですが、お金をかけずに時間を潰すには充分すぎるほどの量が存在します。このため、貧困地域でもエンタテインメントは普及しています。

 アーカイブを掘らなくても、新作も安価なものが氾濫しています。
 新作を追いかけるだけでも、自分の好きなジャンルを追いかけるだけでも一生それを享受し尽くすことはできません。
 人工知能補助によって、絵も音楽も映画も、作る速度が爆発的に上がっているためです。



「作る」欲求の人工知能アシスト(人工知能ボーナス)


 人間が作品を作る環境は、大きく自動化されています。
 これは、人間がだいたいのイメージを伝えれば、人工知能がそれを現実にする手助けをしてくれるということです。何かを作りたいと思ったとき、手が止まったり難しかったりする場所を、人工知能が自動で乗り越えたり適切なアドバイスをしてくれたりします。人間は作りたいところ、やりたいことだけをやって、触りたくないところは人工知能にアウトソースすることができます。
「人間の根源的な作る欲求」を「普通の人間なら満足できる品質」に結びつける人工知能による補助は、しかも安価で手に入れられます。

 この人工知能アシストによって、ゲームや映画、アニメーションといった非常に人手がかかるものの製作も自動化されます。
 だいたいのストーリーを考えると、それを人工知能が漫画化してくれるようなサービスもあります。

 人間が共同作業をする場合、人間関係やコミュニケーションの齟齬でうまくゆかなくなる場合も多いのですが、人工知能アシストではその協調がきちんと働きます。(※)
 物資リソースを使わない、人間がその想像力と経験と技術とで作り上げるものは、人工知能補助の威力をもっとも受けやすい分野でもあったのです。

(※)ただし、人工知能は無難なものを提案しがちなので、普通以上のものにするためには作り手にディレクションの感覚が必要です。これは突き詰めてゆくと、一人でプロレベルのものを作るためには、多方面のセンスと製作時間が必要になるということでもあります。

 人工知能のアシスト環境さえ整えてしまえば、どんな作り手がやってもそれなりのものには仕上がります。それは、リーダーが駄目でも、できる部下が何十人もいればそれなりに尻ぬぐいをしてくれる集団制作のようなものではあります。
 ただ、最高のもの、他のもっときちんとした作り手が扱った場合に比べると、出来映えでは勝負できません。

 人工知能アシストで作られるものは、どこかで見たようなものになりがちです。
 それを避けるためには、アシストを使う人間に、センスや経験、強いモティベーションなどが必要になります。

 それでも、人工知能アシストによって作られるものの質が底上げされているのは事実です。つまり、人手の制約が外れることで、物作りの質はまだ上がる余地があったのだとされています。

 ただ、この「人工知能ボーナス」にも頭打ちはあるとされていて、二十年後三十年後にどうなるかは不安視されています。
 このため、22世紀初頭の文化はフロンティアとしての宇宙を向いており、経済的な状況とも合致するため(地球文化に取り込めるかたちでの)宇宙文化の創出には多大な資金が投下されています。(参照「宇宙文化」)



宇宙文化


 22世紀初頭の宇宙文化は、ふたつの潮流が衝突しています。

 ひとつは「人工知能ボーナス」以後の人類文化を見越した、地球文化に取り込めるかたち編集されている宇宙文化です。
 二つを厳密に分ける場合は、「地球型宇宙文化」と呼ばれます。
 地球からパッケージ化して販売できる形態が主流で、音楽やムービー、ゲーム、ファッション、食品などありとあらゆる商品に文化が付加されています。地球発の宇宙文化は、どうやって課金するかの出口がしっかりしていることと、有料のものと無料のものの整理がついていることが特徴です。
 また、地球文化のアーカイブが無料で見られ、ある程度の改変が可能なものとして提供されています。このため、圧倒的な物量と質で、人類の居住可能な宇宙中に広がっています。
 この地球主導宇宙文化は、人工知能の強い支援を受け、文化投資を大量に受ける華々しいものです。

 二つ目は、宇宙住民から自然と湧出する宇宙文化です。これは宇宙住民の生活文化で、予算が少ないものであるため宇宙生活者の生活に密着したものです。
 二つを厳密に分ける場合、「宇宙型宇宙文化」と呼ばれます。(※)
 廃棄された宇宙船や宇宙用機材を利用したオブジェやグラフィティアート、音楽が主流です。また、地球文化の無料アーカイブを加工や編集したものが多く、22世紀初頭段階では明らかに地球文化の影響が色濃く表れています。
 地球では法的に認可されない過激なアートが宇宙で発生もしています。ただ、こうした作品は認可コロニーの外に持ち出すことができないため、破壊的なインパクトをもたらすという状況にはなっていません。観光客がコロニーに旅行して見る状況が発生しています。
 文化全般としては口語での語りやソーシャルな繋がりが強く、地域に密着しています。

(※)「地球型-宇宙型」と呼ばれるのは、宇宙メディアや宇宙文化圏での分類です。学術的にも普通はこちらを使います。ただし、地球メディアでは「地球型-地域型」と分けます。「地域型宇宙文化」という呼び方自体も地球中心の差別的分類であるとして、宇宙生活者からは批判されています。

 この二つは22世紀初頭現在、すでに大きな齟齬を起こしています。
 そして、このそれぞれの文化影響下にあるコロニー間や植民地間で大きな摩擦を起こす原因になっています。

 宇宙住民にとって悩ましいのは、人工知能ボーナスの影響下にある地球型宇宙文化が、ときとして宇宙発の文化芸術より宇宙住民のこころを捕らえることです。
 本来、技術によるサポートなしでは生存不可能な宇宙環境にあって、人工知能は地球上よりも必要性からスムーズに受け入れられるはずでした。けれど、文化的に露骨な誘導が見て取れる構図は、宇宙住民に根深い人工知能や自動化への不信を引き起こしています。

 宇宙にもやはり抗体ネットワーク(参照「抗体ネットワーク」)に相当する運動が存在し、これはしばしば宇宙海賊やコロニー行政府に対する反政府運動と結びついています。宇宙で高度な人工知能を使うことが許されているのは基本的には行政府だけなので、人工知能=行政府というイメージが宇宙住民に存在するためです。



宗教


 現時点[2015/01/19]において、宗教について、「アナログハック・オープンリソース」はオフィシャルなかたちでは記載をしないことを選択しています。
 これは、宗教観に関してはオープンリソースを使うかたそれぞれで選択していただくのがよいと考えているためです。
 このため、長谷の作品に宗教に関する記述が登場する場合も、オープンリソースとして追記する予定は今のところありません。

 具体的に言うと、アナログハック・オープンリソースでは、22世紀を現代の延長上にある(架空未来である)としているため、そこで信じられている宗教は未来のキリスト教やイスラム教、仏教などの現実にあるさまざまな宗教、あるい新興宗教です。
 そこで、たとえば宇宙植民時代のムスリムやクリスチャンの姿を、設定として置くことに、考えるところがあったという感じです。

 これについてはいかなる正解も不正解もありませんので、自由に設定なさってください。
 管理人(長谷)は思ったように書きますので、そちらを使ってくださってもそうでなくても構いません。アナログハック・オープンリソースはそういう趣旨のものなのですが、宗教についてはより一層にそうです。



社会的弱者への眼差し


 新しい時代、技術や社会の急速な進歩による変化から、新しい弱者はさまざまなかたちで生まれ続けています。
 けれど、21世紀から22世紀にかけて、社会的弱者への眼差しはそれほどやさしいものにはなっていません。
 ただ、その間の進歩はあります。この進歩は、「理解の深化」「補助サービスの安価傾向」によって支えられたものです。

 つまり、総予算に対する社会保障費の割合は増えていません。けれど、この費用によって最大の効果をあげられるよう研究が進み、サービス自体が安価になることで手を広げられるようになったということです。

 社会的弱者は、日々新たに生まれ続けています。
 これに対して手を差し伸べる努力は行われ続けました。ただし、差し伸べられた手ですべてが掬われるわけではありません。むしろ、理解が深まりサービスが効率化したことで、「具体的に何人掬えるか」が数量として明確になり、どういう線引きでどこまでを掬うのかという選択が立ち上がっています。

 22世紀でも、社会的弱者の状況には21世紀初頭と変わっていないケースもあります。たとえば難民は状況があまりよくなっていません。(※)
 その理由は、各国の予算振りわけの優先順位で、国内弱者の保護よりも優先順位を下げられているためです。
 しかも、難民が発生すること自体を止めることはできません。これは難民が弱者への補償とはまったく関係のないシステム――国家としては弱者補償よりも優先順位の高いプロセスによって発生してしまうためです。

(※)難民キャンプを設置する速度は速くなり、そこでの暮らしは以前より改善されています。けれど、難民キャンプが略奪や攻撃を受けることを止めることはできません。これは略奪や攻撃が、理解が深化しようともサービスが安価になろうとも止めようがないことだからです。
 難民キャンプへの略奪や攻撃は22世紀になっても頻発しています。これは、治安が無効化される場所では歯止めのかけようがなくなるためです。
 キャンプ内の秩序維持の試みも、効果は限定されています。
 難民受け入れに制限があることも、同じ理由で改善があまりありません。むしろ人工知能化によって国内世論の政治的誘導が容易になったことで、行政府の意向を受けて見捨てる方向に進むことも珍しくありません。

 進歩した世界でありながら、だからこそ救われる弱者と救われない弱者との線引きが明確になっています。
 これは、塗炭の苦しみにまさに塗れている人々にとっては怒りを掻き立てる構図であり、テロの底流にもなっています。

 差別や憎悪も、理解の深化やサービスの効率化では対処できていないもののひとつです。この差別や憎悪は社会的弱者に向く傾向があり、理解の深化がこれを止める力は限定的です。これは、弱者をたたく人々の多くが、そもそもきちんとした知識を学ばないためです。
 22世紀初頭では、21世紀初頭と比べて多くの事柄で深い知識を得ることができます。けれど、学ばなければその恩恵も限定的なかたちでしか得られません。

 こうした学ばない人々に対する知識の伝達は大きな課題です。
 一番効果的なのは、一定以上に現実が広がってしまうことです。
 身近な現実になることで知識が否応なく広がると、傾向としては差別が和らぎます。22世紀初頭の日本でいうと、生活保護受給者に対する差別などはその一例です。

 ただ、身近な現実になってから、理解が広がるまでには、より苛烈な差別が行われることがよくあります。このときに決定的な事件が起こると、さらなる差別が発生するケースがあります。先進国では比較的その泥沼に至ることは少ないですが、それでも失敗例はあります。
 また、現実とセットで知識が広がっても、より激しい憎悪が燃え上がるだけであるケースもありました。知識が歪んで伝わったり一面的にしか学ばれなかったりするパターンです。これは、歪んだ解釈を伝える人々にも利害があるため、誘導がメディアや政府によって堂々と行われるケースも多くあります。
 このパターンが解決を見るのは非常に困難です。間違った情報であっても、もう一度学び直すというモティベーションは持たれないことが多いためです。
 特に戦争に状況が近づくと、こうした世論誘導が行われるのはよくことであり、これを改善するすべは22世紀初頭になってもありません。強力な人工知能や資金力を握っている者が誘導に荷担しているためです。



AIと芸術活動


 AIは芸術活動によく使われています。
 これは、AIそのものが芸術作品となるケースと、AIを利用して芸術作品を作ることの両方を指します。

 AIは芸術活動の用途での使用に、ほぼ制限がありません。
 「芸術作品を作るAI」を作ること自体が、「芸術とは何か?」(人間・文化とは何か)を問う一種の芸術活動だからです。
 ただし、芸術用途で作られたAIを、他分野で流用することは認められていません。

 たとえば、内分泌系の働きまでを完全にシミュレートし、人間とほぼ同じであると科学的に証明できる感情を持ったAIも存在します。
 けれど、これを人間と扱うかということは、芸術的問い掛けとしては有用ですが、社会制度にとって難しい問題です。

「芸術作品として作られる人格AI」に人権を与えるべきかは、未解決の大きな問題として人類に突きつけられています。
「見せ物として作られ、見せ物として存在を許されているAIは〝搾取されている人格〟であるのか?」ということは、芸術としては高い価値を持ち続けています。けれど、深刻すぎて解決不能のまま放置されているというのが現実です。

 完璧に人間を模倣したAIの他に、それにカウンターを当てるように99%人間、98%人間、90%人間であるAIも作られています。
 あるいはスライダーで操作すると、100%から30%まで人間の模倣度が可変するAIまで芸術として作られています。
 100%人間模倣のAIをもし人間だと認めるなら、99%、90%、何パーセントまでを人間だと認めるかの分水嶺が発生することになります。そして、その分水嶺の正当性が攻撃を受けることになります。

 芸術AIの制作自体が、現代芸術(コンテンポラリ・アート)の一ジャンルとして、一般的に知られています。
 これのフィードバックが、hIEにもフィードバックされています。
 hIEの動作決定クラウドなどは、どこかしらにこの芸術ジャンルからのフィードバックを受けています。

 芸術AIは、パトロンなしで芸術家が自力で巨額の富を手に入れられる分野なので、活発に人材が流入している分野でもあります。
 つまり、芸術AIの開発に成功すると、少なくともそれが飽きられるまでの間、大量の収入を芸術家は手に入れることができます。(※)
 人間の芸術家では到底不可能な生産量で、大量の作品を作って売りまくることができるのです。

(※)これには「芸術品として作られたAI」のほうには完璧な人格があるのに財産権が存在しないという搾取が制度上発生し、この状況自体をアートとして消費した作品も存在します。

 ただ、人間の芸術家人口と、芸術用途の人工知能を数で比べると、これも人工知能が10%という比になったということが知られています。
 これは、人間が創作する欲求自体は減退することはないためです。
 ただ、作品製作補助をAIが分担してくれるため、人間による創作のハードルも下がっており、芸術家人口は21世紀よりも多くなっています。もちろん、芸術で生活が成り立つのがそのうちごく少数であるという状況は変わっていません。




書籍


 22世紀初頭の世界では、書籍の70%以上は、電子書籍に切り替わっています。
 そして、書籍は基本的には人間によって書き続けられています。

 けれど、紙の本もまた出版され続けています。

 これは、日本においては2063年のハザードの影響です。関東の巨大地震から超高度AI《ありあけ》による支配に社会が入ったそのさなか、人々は知識を著しく制限されました。
 ネットワーク上のデータは《ありあけ》に検閲を受け、またエネルギー不足を名目にアクセス制限がかかってしまいました。

 紙の書籍は、少し電子書籍よりも割高です。これは、紙書籍自体のコストと同時に、同じ内容の電子データも通常ついているためです。
 22世紀初頭の紙書籍は、基本的には電子データとのセット販売です。あるいは、「電子書籍に紙の本というオマケがついた豪華版」と扱われています。
 ベストセラーや冊数の見込める本は、限定何千セットといったかたちで、紙書籍セット版が売られることがよくあります。このため、22世紀の人々は、紙書籍というと、古い本というイメージと愛蔵版・豪華版・マニア向け特装版というイメージがついて回ります。

 また、電子書籍はたいていの場合、配信元企業のひもがついています。このため、配信元企業が配信停止を決定すると、昨日まで読めた本が突然読めなくなる事態が起こります。
 これは、提供データに責任を持たねばならない配信企業側の事情によるものですが、検閲にもよく利用されます。このため、技術書や文化的意義を企画意図として作った書籍は、紙の本が一定数作られるのが通例です。

 hIEや超高度AIのある世界に拒否感を覚えている人々は一定数おり、こうした人々は紙の本を愛用し続けています。
 紙の本は、かつてのような文化の主流を担ってはいませんが、ひとつの文化的態度を示すアイコンとしてその役割を持ち続けたのです。

 紙の本は、主流が電子書籍であることははっきりしているので、刊行点数は減っています。
 書店の数は日本全国で2000店程度になっており、書籍流通は日本でも再販制もない普通の物流になっています。
 そのかわりに印刷技術の進歩で、オンデマンド出版に近いことが安価でできるようになっていて、300人程度の要望があれば電子書籍を紙の書籍化してもきちんと採算に乗ります。
 つまるところ、嗜好品としての立ち位置を手にしたため、紙の本はかつてとは比べものにならないほど小さいものながら安住の地を手に入れたのです。



図書館


 22世紀の図書館は、いまだ大きな施設を必要としています。
 書籍の主流は電子書籍であり蔵書にたいしたスペースは必要ないのですが、図書館はいまだに紙の本の蔵書を増やしているためです。つまり、紙の書籍は一般的には高額な趣味の品になっていますが、図書館はあらゆるコンピュータが使用できないときのために本をたくわえ続けているのです。

 22世紀の図書館は、紙の本と電子書籍の、二つに別れた書籍の両方を蔵書しています。

 また、書籍のデータアーカイブ自体が存在意義のひとつであるため、図書館は「版元の紐が付いていない書籍データ」を持っています。つまり、発禁になったり配信者の都合によって配信が停止された書籍であっても、図書館にはデータが残っています。
 ただし、図書館側の都合やルールとしてこれの閲覧許可が出るかは別の問題です。

 図書館の電子書籍窓口は、紙の書籍に対して長めの貸出期限をとっていることが普通です。
 ただ、図書館の電子書籍は「図書館から配信される書籍」として扱われるため、必ず貸出期限が存在します。これは、出版業界との合意があってのことであるため例外はなく、また期限が切れれば容赦なく書籍を読めなくなります。

 また、図書館だけでの利用では儲からないため、書籍の版元は「図書館バージョン」を一般販売する書籍とは別データで用意していることがよくあります。この傾向は、エンタテインメント出版物ほど強く、学術書や技術書ほど弱くなります。
 これは「図書館がその書籍の顧客割合としてどの程度の割合を占めるていか」による部分が大きく、図書館需要が大きい書籍は一般販売と同じデータで置かれています。

 電子書籍時代になっても、紙の本の蔵書を持っているため、図書館は地域に根ざしたものであるままです。ただ、館数自体は顕著に減っています。

 大学図書館のような、閉架書庫がある場合は、施設の中でのみ使える特別な端末を受付カウンターで渡されます。
 閉架書庫の本はほぼ百パーセント電子化が終わっているのですが、それがかならず公開されるわけではありません。これは公開データにすることと、その管理に予算がかかるという理由が大きく(※)、大きな施設や潤沢な予算を持つ施設の蔵書ほど公開されやすい傾向があります。
 このため、郷土史など限られた小さな施設にしか置かれていない蔵書データは、地域図書館に直接出向かなければ見ることができないことは少なくありません。

(※)どのみち元データである貴重な紙の書籍は保管するため、電子データ公開と維持に関わる費用がすべて追加計上になってしまうためです。電子化と同時に閉架書庫の古い紙書籍を破棄してしまおうという声はかならずあがるのですが、これが本当に実行されることは比較的まれです。
いくつもの国で、これをしてしまったため、散逸した紙データを二度と取り戻せなくなる現象が起こっています。こうしたタイミングで流出した貴重な書籍の中には、後に稀覯書になったものも数多く存在します。
最終更新:2015年01月19日 23:15