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タッチ

 夕方。開発が進んでおらず、田んぼが広がっているだけの県道沿いの歩道。
 久々に運動しようと思って二駅早くバスを降りて、歩いていたら――
「タッチ!」
 ――突然、強く背中を叩かれた。
 振り返ると、汗まみれで息を切らした男が血走った目でこちらを見ていた。
 唇が切れている。衣服は乱れていて、膝や肘に擦り傷がある。
「タッチしたぞ! タッチしたぞ! 俺は自由だ!」
 と、男は空に向かって吠えた。勝利を宣言するかのように。
 見知らぬ男。酔っ払い――いや、この異常な興奮、薬物の影響か。
 男を刺激しないように、何も言わず、そっと足を後退させる。
 逃げるために、走り出そうとした瞬間、
「鬼が来るぞ、逃げろ! タッチすれば交代できる! いいな、俺は教えたからな!」
 と、男は叫び、走り去っていった。
 みるみるその背中は小さくなる。
 何だったんだ、まぁ、何事もなかったから……と、思っていたが。
 男とすれ違うようにして、なにかがこちらに向かって走ってくる。
 速い。全力疾走している、だれか。
 夕日を浴びて、黒くて大きい、人型の。
 近付いてくる、そいつは頭の先から爪先まで、黒い煙のようなものを纏っている。
 そいつの周囲のものはちゃんと見えている、車道の標識もはっきりと――制限速度四〇㎞。
 輪郭が捉えられない、ゆらめく黒い煙のようなものを纏った人型のなにかが、こちらに向かって走ってくる。
 ……なんだあれ。なにか、おかしい。
 鬼が来るぞ、逃げろ。男の言葉を思い出す。
 狂人の戯言を信じるのか? 逃げ出す自分を理性が嘲る。
 だが、感情は怖い、逃げろ、絶対に危険だと訴えている。
 ――感情が勝った。
 黒いそいつに背を向け、走り出す。家とは逆方向だ。
 全力で走る。すぐ、息が上がる。
 ちらりと背後を見る。いなくなっていることを期待して。
 黒い煙のようなものを纏った人型のなにかが、こちらに向かって走ってくる。
 ……ちくしょう。なんなんだ。
 もしかしたら自分とは、まったく関係無いかもしれない。
 だが、足を止めて、確かめるような勇気はない。
 いや、それは勇気ではなく、無謀だ。
 追いつかれたら、絶対悪いことが起こる。なぜか、そんな確信を抱いてしまっている。
 確信に突き動かされて、息が上がって、胸が苦しいが、全力で走り続ける。
 車が一台、二台、通り過ぎる。
 運転手が後方を確認しているような様子はない。
 ――あれが見えないのか。振り返るだろ、ふつう。あんなおかしいもの。
 鬼が来るぞ、逃げろ。狂人の戯言が頭の中で反響している。
 鬼。なんなんだ、鬼って。あれが、鬼?
 左に曲がる小道が見えた。
 田んぼを横切って、林に伸びる、農道。
 林の向こう側になにがあるのかは知らない。深い森が広がっている、それとも家が建っているのか。
 少し迷ったが、左に曲がった。
 黒い煙のようなものを纏った人型がついてこないことを期待して。
 そんなものの見間違いで、ジョギングしている人が見えることも期待して、振り返る。
 ――まだ、ついてくる。
 輪郭を捉えられない、まるでこの世のものではないような人型。鬼――
 まだ、ずっと、こちらに向かって走ってくる。
 タッチすれば交代できる。いいな、俺は教えたからな。
 あの時、強く背中を叩かれた。あれが、タッチ? まるで子供の遊びのような、タッチ。
 いいな、俺は教えたからなと言ったのは、もしかして、あの男のわずかな良心だったのだろうか。
 鬼が来るぞ、逃げろと言った、あの時、今思えば警戒を促すような声色だったような。
 ……もし、そうだとしたら。もし、この道の先が森だったら……
 運動不足が祟って、息がもう切れてきた。あの男のように。
 足が攣りそうだ。小石で転びそうになった。転んだら、擦り傷になるだろう。あの男のように。
 周囲にだれもいない。タッチする相手がいない。あの男と違って。もし、鬼に捕まったら、どうなってしまうんだ。