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スピード

 日差しが部屋の中に差し込む。
 朝が来ている。なのに、けたたましく鳴るはずのベルの音が聞こえない。
 まさかと思い、布団を纏ったまま芋虫のようにベッドの上を這い、目覚まし時計に手を伸ばす。
 目覚まし時計の左側に指が触れる――スイッチが下がっている。目覚まし機能がオフになっている。
 目覚まし時計を持ち上げ、寝惚け眼の前に持ってくる――とっくのとうに家を出るべき時間。走っても間に合うかどうか。
 間に合わないのであれば、諦めて、遅刻を受け入れるべきか。そのほうが無駄な体力を使わないで済む。
 ……いいや、もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
 今から、全力で走れば。今、この瞬間――!
 布団をおもいきり蹴飛ばす。
 宙を舞った布団が床の上に着くより早く、床の上に散乱している学ランを引っ掴み、部屋から飛び出す。
 部屋を出ると、廊下。パジャマ代わりのジャージを脱ぎ捨てながら玄関へ急ぐ。
 玄関に着く。ズボンを履き、素足のまま、靴を履く。靴下は諦める。鞄も諦める。遅刻しない、それだけを考えて。
「行ってきますッ」
 上半身裸のまま、玄関のドアを開け、外に駆け出す。
 ドアが閉まったかどうかを確認し忘れた。もしも閉まってなかったら、家に帰ってから小言を言われるかもしれない。朝食も食っていないし、歯も磨いていない。喉が渇いている。せめて水の一杯くらい……いや、その数秒が命取りになり得る状況。素肌の上に学ランを羽織り、全力疾走を開始する。
 空は青く、雲は無い。無風状態――追い風が吹いていてくれたら嬉しかったが、向かい風が吹いていないだけ幸運だと自分に言い聞かせる。あとは信号の色が青であることを祈るのみ。赤だったら……その時はその時だ。
 住宅街、歩道の白線の内側を走る。
 伝染柱を一本、二本と追い抜いていく。ゴミ袋を持って歩いているおばさんを追い抜く。スマホを弄りながら歩くサラリーマンと肩がぶつかる。サラリーマンに睨まれるが、スマホを弄りながら歩いている奴の都合なんて、知ったことか――足を止めず、背後に置き去りにする。遅刻間際の時間帯、学生の姿は見当たらない。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――」
 準備運動も無しにいきなり走り出したもんだから息が上がっている。
 自転車通学が認められるのは、一定以上学校から距離が離れた遠方に住んでいる学生だけ。学校の近くに住んでいる自分は徒歩で通学しなければいけない。自転車通学だったら……と思っていたら目の前に自転車に乗った……あれは大学生だろうか。フリーターだろうか。とにかく自転車に乗った男の姿が目に入る。
 ――この野郎!
 特に恨みはないが、この野郎。自転車を追い抜いてやると決めた。
 腕を振る。アスファルトを蹴る。回転数を上げる。腿が痛い。乾いた喉がひりつく。腹が減った。米が食べたい。だがしかしもう遅刻しないために走ると決めたのだ、走れ。あの自転車も追い抜いてやる。なにもかも追い抜けば、きっと間に合う。特に根拠はないけど、そう信じて。もっと、もっとスピード。速く――