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名刺交換

「これ、私の名刺です」
「あ、どうも。これ、私の名刺です」
 自己紹介した後の名刺交換。
 一見、何の変哲も無い光景に見えるかもしれないが、この瞬間、俺の中で焦りが生まれた。サラリーマンではない者に、この焦燥感は理解出来ないだろう。先に名刺交換を切り出された――これは話術で相手に上を行かれたことを意味する。ここから挽回することも不可能ではないが、「先に名刺交換を切り出した」という事実は相手に主導権を与えてしまう――不可能ではないが、非常に難しい。
 だがしかし、やるしかない。
 共に片方の手で自分の名刺を差し出し、もう片方の手で相手の名刺を受け取る。
 自分の名刺を相手が受け取るのと相手の名刺が自分の手の中に収まるタイミングは同時だった。機を読む力は互角ということだ。機を読む力は仕事の効率に直結する。現場の機微に的確に対応できるかどうか、それ次第で仕事の効率は大きく変動する。高い能力があっても、それを活かせなければ意味がない。いかに自分の能力を活かせるか、機を読む力は互角。やはり、この男、出来る。
 だが、俺だって。
 俺の名刺を受け取った瞬間、相手に衝撃が走った。
 表情は変わらなくても、俺は見逃さない。ズボンの裾が1mm、風にそよぐように動いた、つまり膝が震えたのだ。
 ――どうだ、俺の名刺は鋼鉄製だ。
 名刺はいざという時、サラリーマンの身を守る最後の武器だ。時代と共に種類は増え続け、流行は変わり続けるが、昔から変わらないストロングスタイルが存在する。それが鋼鉄製の名刺。単純明快、硬くて重い。投擲武器として、これ以上に適したものはない。なお、一説によると手裏剣は名刺を参考に作られたという。
 勿論、鋼鉄製の名刺も使いこなせなければ意味がない。近頃は自分の力量以上の名刺――伊達名刺も増えている。
 が、ここで先に示した機を読む力が活きてくる。いざという時、的確に動けることを俺は既に示している。そんな俺が、いざという時、名刺を投げ損なうだろうか? 否――俺は鋼鉄製の名刺を使いこなせる男だと相手は理解した! だからこそ膝にきたのだ。
 平時は話術で勝るお前に軍配が上がるだろう。
 だが、いざという時、俺は頼りになる男だ。そのことを相手に思い知らせることができたらしい。
 相手は名刺を懐に仕舞わず、手に頂いた状態を維持している。名刺に書いてある情報をいつでも参照できるように、つまり相手に関心を抱いていることを示すために名刺は仕舞わないことが礼儀……と巷では言われているが、真実は違う。
 たとえば、名刀を鑑賞する機会を与えられたとしよう。鞘から抜き、見事な刀だと思った。その時、すぐに刀を鞘に仕舞ってしまうだろうか? 何度も何度も、まじまじと見るだろう。それと同様、見事なサラリーマンだ……そう思った時、自然と相手の分身たる名刺を仕舞うことを躊躇ってしまうのだ。
 にっこりと、両者同時に笑みを浮かべる。
 一見、何の変哲も無い愛想笑いに見えるかもしれないが、この瞬間、二人の間で熱いものが生まれていた。それは友情かもしれないし、敵意かもしれない。ライバル心とも言えるかもしれない。サラリーマン以外に理解し難い感情かもしれないが、この瞬間、二人の間で確かに熱いなにかが結ばれたのだ。
 二人同時に席に着く。
 今のは、ほんの挨拶だ。サラリーマンの本番は、ここから。