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かさぶた

 妻は昔から、他人のかさぶたを剥がすことが好きだった。
 他にも日焼けした皮を剥がしたり、白髪を抜いたり、そういう悪戯が好きだった。学生の頃からだ。
 学生の頃、僕は陸上部に所属していて、彼女はマネージャーだった。彼女の奇行を嫌がる部員は多かったが、僕は痛みに強いというか鈍いというか、笑って済ませられる範囲のことだったので、剥がしたかったら剥がしていいよと彼女の好きにさせていた。そうこうしていると自然と仲良くなって、社会人になっても付き合いは続いて、結婚して、そして今。
 今、僕は妻と車の中にいる。運転席に僕、助手席に妻。後部座席に買い物袋。
「楽しみね」
 と、妻は窓の外を見ながら、独り言のように言った。口元は微笑んでいる。
 ラジオでは、リスナーの投稿を紹介している。僕はラジオに集中して聞こえなかった振りをした。
 何と答えればいいのかわからない。今、彼女が何を考えているのか、それを知るのが怖い。
 おかしい、と思ったのは先月。
 ちょっとしたことがきっかけで僕が台所に立って、夕食を作ることになった。献立はカレー。
 野菜の皮を向いている時、テレビに気を取られた拍子に手元が狂って、包丁の角で指先を抉ってしまった。
「痛っ」
 傷口は結構深くて、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てくる。
 すると妻が駆け寄ってきて、
「えっどうしたの? 包丁で切った?」
 と、傷口を覗き込んでくる。
 若干嬉しそうな口調だ。
「余所見していたら、手が滑って」
「んー、とりあえず洗いましょ」
 と、蛇口を捻って水を出す。僕はその中に指を突っ込んだ。
 水で血が洗い落とされ、赤が溶けていく。
 けど、血は止まらない。洗っても洗っても溢れてくる。
「んー」
 妻が蛇口をさらに捻った。水流が強くなって、勢い良く傷口に水が押し付けられる。
 傷口が押し広げられるようで、痛い。だが、その甲斐あってか血流は弱くなり、傷口が露わになってくる。
「意外と大したことなかったみたいね」
「大したことあったら困るよ」
「そうね、ふふ。ね、こうすると痛い?」
 と、妻は傷口の周囲を指先で軽く押した。
 触診のようなものだろうか。
「いや、痛くない」
「じゃあ、これは?」
「痛くない」
「これは?」
「ちょっと、痛い」
「これは?」
「痛い、痛い痛い痛い、やめて」
「これは?」
 妻の爪の先が傷口を抉っていた。
 傷口を指先で押し広げながら、露わになった肉の部分に爪を、ぐりっと。
 どれだけ力を込めたのだろうか。米粒より小さいくらいだが、肉が削られて、さらに血が噴出した。
 僕は悲鳴を上げた。
 その時、妻は微笑んでいた。
 まるで酒に酔っている時のような、下品な言い方をすれば、欲情している時のような。
 曖昧に、とろんとした微笑み方。陶酔していた。
 妻は悪戯が好きなんだと思っていた。ちょっと、サドっ気がある、その程度だと思っていた。けれどもそういうえば彼女の前で今まで怪我らしい怪我はしたことがない。かさぶたができるような擦り傷以外はこれが始めてだった。彼女が本当に好きなものは? 怪我した僕を見て笑っていたのは? 傷を広げる程、爪に力を込めたのはどうして? 彼女は何に陶酔していた?
 今日、妻と一緒に買い物した。
 彼女は包丁を買った。最近切れなくなったから。
 彼女はハサミを買った。どっかにいっちゃったから。
 カミソリを買った。手入れのために。
 電動ドリルを買った。家具を組み立てるために。
「あなたが留守の時に家具を買ったの。それを組み立てるために欲しくて」
 と彼女は言った。
 でも、そんなような物を家の中で見掛けた覚えはない。彼女は嘘を吐いている。
 どうしてすぐバレる嘘を吐いた? 何のためにそれらを買った? 何が楽しみがなんだ?
「本当に楽しみ」
 と妻が呟いた。
 僕は黙っている。
 今、彼女が何を考えているのか、それを知るのが怖い。