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曇りガラスの向こう側

 幼少の頃の出来事はよく覚えていない。
 だから、眼鏡をいつごろから掛け始めたのかは分からない。小学生の頃からだろうか。小学校に上がる前の出来事は犬を飼っていたということくらいしか記憶に残っていない。僕の家は茶色くて大きな犬を飼っていた。確か、柴犬だったと思う。よく吠える犬だった。家の前を人が吠えるとすぐ吠える。時折、誰もいないのに吠えることもあった。寿命か病気が事故か、なぜだったかは覚えていないけど、その犬が死んだ時、幼い僕は沢山泣いた。
 眼鏡を掛け始めたのは多分、小学生の頃からだ。小学生の頃、毎日眼鏡を掛けていた、それはちゃんと覚えている。
 コンタクトレンズに変えたのは、高校生になってからだ。運動の邪魔――というのはお金を出してくれる親に対する言い訳で、眼鏡はダサいと思うようになったってのが本当の理由だ。お洒落に目覚める年頃ってやつだ。
 コンタクトレンズを付けたまま寝てしまうということが起こるようになったのは、大学生になって一人暮らしを始めてからだ。生活が不規則になって、コンタクトレンズを付けたまま寝てしまって、朝起きて、コンタクトレンズを消毒液に漬けて、しょうがないからその日は裸眼で過ごす、という怠惰な休日を過ごすことが多くなった。その頃だ、それに気付いたのは。
 裸眼で見る風景は、まるで曇りガラスの向こう側。遠くの人は、ほとんど色とシルエットしか分からない。髪が長いし、細身だから、多分女だな……みたいな感じだ。ところが近付いてみるとロン毛の男性だってこともある。そんな風に性別や年齢を見間違えることはある。でも、人間かそうじゃないかを見間違えることはない、絶対に。
 コンタクトレンズを外して、裸眼で外を出歩いている時に限って、明らかに人間じゃない、異形を見掛けることがある。
 腕が多い? 脚が多い? 頭が多い? 関節がねじれている? 痙攣しているような、なんだかおかしな歩き方をしている? 裸眼の視力だからよくわからないけど、とにかく絶対に人間じゃないことは間違いない、異形のシルエットを見掛けることがある。コンタクトレンズを外した、裸眼の時だけ。コンタクトレンズを付けていると、それを見掛けることはない。
 勿論、僕だって見間違いを疑った。でも、絶対人間じゃないおかしなシルエットのやつがたまにいるんだ。
 近くで見たことはない。
 見たいとも思わない。
 さっき、スーパーから出る時に見掛けて、遠回りして家に帰ることにした。
 真っ昼間、晴天。見間違えるはずがない。スーパーの袋を持った背の曲がったおばあさんの背後にいた……踊っていた?……異形のシルエット。おばあさんが気付いた様子はない。まわりの人も気付いていない。あんな変な動きをしているもの、目で追うくらいはしそうなものなのに。いつも、なぜか、どうして、僕だけが気付いている。おかしいのは、僕なのか。
 電信柱。曲がり角。早足で歩く。やや、小走りに。早く離れたい、早く。
 サイレンを鳴らして走る、救急車とすれ違った。
 すぐに、サイレンは止んだ。あのスーパーのあたりで。
 スマホから着信音。開いて見ると、近隣地域速報。交通事故。被害者。場所は……
 スマホの電源を切って、ポケットに仕舞う。
 どこかで犬が吠えている。昔飼っていた、あの犬のように。