もうひとりの高倉健

週刊文春によれば、大晦日、紅白で健さんの追悼を薬師丸ひろ子の歌のときやろうと

したらしいが、高倉プロとの折衝がうまくいかず映像が使えず中止になったとか。

DVDを勝手に流すわけにもいかないのか。高倉プロも前途多難、写真集発売でも

クレームをいれていたが、しっかりした人に補佐させないと、昭和のスターの遺産が

消滅してします。

さて、高倉健さんといえば、ホモ説、江利チエミひと穴主義とかいろんなうわさ

があったが、本当はどうなんだろうか。

黒目部分より白目部分の方が多い、いわゆる三白眼で、三白眼般若頭の役者はいらん

とかいわれていたが、持前のまじめさと熱心さで大スターの地位までのぼりつめた。

不犯の英雄 のような言い方までされて本人は、はがゆかったのではないか。

では彼の名誉を回復しよう。

若き頃の健さんは暇さえあけば、女郎屋にかよっていた。もう徹底的にかよってい

た。昭和33年3月31日売春防止法が施行寸前まで行っていた。

明治大学商学部時代は部活は体育会系相撲部で、先輩は神様、なんとJKにまじって

高校の選抜野球大会でグランドでアイスキャンデーを売っていた。本人は参加していないというが、単位をくれない教授の自宅に押しかけ、全員で、邸宅にロープをかけて二階建ての家を倒壊させたこともある。

小田急線の新宿駅で「片瀬江の島行」の看板をへし折って、ガスがとめられているんで家でメシを焚いたり京王線の車掌を殴ったりで、何度か淀橋署にとまったことも あったようだ。

渋谷のワシントンハイツに住んでいた時、となりが新宿の「武蔵野キャバレー」の 女で男をつれこみ夜な夜な喘ぎ声、刺激され堪能したようだ。

大学を卒業していったん九州にかえり、半年、実家の採石業を手伝っていたが、惚れた

女と同居したくて再度上京。

職をつがして、東映ニューフェースに採用、当時ニューフェースは全員俳優座養成所研修生として強制入門。

月給6000円、ギャラ2万円であった。

ヒット作「網走番外地」は当初、丹波哲郎がキャスティングされていた。われわれに

すれば健さんになったことは幸運なことであった。

社会をまだ変えられると信じた若い時代、そのけん引となり人々をひっぱった。

オール・オワー・ナッシング、死んで貰います・・・は

その後、

キブ・アンド・テイク お互い金になればいいでしょう、まあ、お互い

悪いことには目をつむって、give and take でやりましょう・・・

の世の中になってしまった。

以上


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