天国にそっくりな星 ◆Ee.E0P6Y2U




――厭な声が聞こえる。

何か不吉なものが鳴いているような、そんな声だった。

――おうおう。

か細い、獣の声だ。
いかな獣であるが全く持って見当つかなかったが、少なくともそれは人の声ではなかった。
人ではない。しかし何かを訴えている。
必死に、絞り出すような声で、何かを求めているのだ。
哀れな声。今日もどこかで獣が苦しんでいる。人ではない何かが、人でないなりに苦しみの声を切々と漏らすのだ。

――しかしそれが。

厭なのだ。
だってその切なる想いとやらは、空っぽなのだから。
悲しさを取り繕っているが、しかし悲しみほど強く弱く揺れはしない。
ある意味で怒りのようではあるが、それにしては志向性というものに欠けている。
では祈りのようであるかというと、それは全く違うと言いきれる。

――その獣は救いなど求めてはいないのだから。

苦しんでいる。
それは事実かもしれない。
だが、それだけだ。それ以上のことを、この獣は求めてなどいない。
その獣が求めているのは、あるいは救いとは真逆の道なのだ。
救いという概念がある。
それと対立する、救いから最も離れた概念が存在するとする。
獣が救われるとしたら、救いのアンチテーゼに寄りかかった、その時だろう。
そんなものはもう救いとは言えないだろう。

――救い。

それは生と結びついた塗炭の苦しみを抱えきれぬ人が、それでも立つ為に発明した“寄りかかる”概念だ。
人が歴史を紡ぐ最中、それは必然的に生まれた。

――けれど、もし“苦しみ”を苦しみと思わぬ者がいるのならば。

果たして彼に救いは必要だろうか。
“重い”がないのに、寄りかかる必要があるのだろうか。
そんな者にとって、ただ救いは空虚極まりない、ただのがらんどうと化すだろう。

――がらんどうを、それでも求めるから。

それが苦しみとなり、声となる。
この獣が訴えているのは、そういうことだ。

――馬鹿な話だ。

苦しみを苦しみと思わないこと。
それこそが苦しみだと、獣は訴えている。
その胸に何もないからこそ、カタチだけでも取繕って声にして吐き出している。
ああ、それは何の笑い話だ。
そんなもの、どうしようもないではないか。
どうしようもない。
前に進めば業火に焼かれ、後ろへ下がれば魂を抜かれる。
彼にとって救いは救いではないのだから、それ以上何かが変わる筈もない。

――だから厭なのだ。

所詮は獣だ。
犬畜生はそれらしく振舞えばいい。
それなのに、まるで人のように苦しんで見せる。
傲慢とは言わない。
ただ空虚だと、軽蔑する。

――おうおう。

ああ、まだ声が聞こえる。
今夜もどこかで獣が鳴いているのだろう。
しかし、それもきっと錯覚だ。
だって外はあんなにも静かだったのだから。





学園での騒乱がとりあえず収まると、私は一人帰路に着いた。
無論、収まった、といっても生徒の帰宅が一先ず終わったというだけだ。
その後の処理はまだまだ続くのだろうが、購買部の店員などにそのような業務が回ってくるはずもなく、私は平時よりも少し遅いくらいで帰ることができた。
恐らくだが明日も授業はあるとのことなので、私の日常は守られたままだった。
それが私にとって都合のいいことであるか、そうでないかはまだ分からないが。

陽は完全に落ちていた。
ぽつ、ぽつ、と立つ電灯の明かりの下、私は緩やかな坂道を下っていく。
じんわりとアスファルトに影が滲み、消えていく。
薄汚れたガードレールはところどころ塗装が剥げていた。直されることはないだろう。
風が吹けば頭上で木々がざわめいた。風は湿っていて、近く雨が降るかもしれない。

そんな道を、駆動音と排気ガスをまき散らしながら一台の車が通り過ぎて行った。
何ともなしにその軌跡を目で追うも、すぐにどこかへ消えてしまう。
車はそれっきりまるで通らなかった。

静かだった。
しん、としている。
人通り自体が極端に少なかった。
この辺りは開発が進んでおらず、都心からも離れ交通の便も悪い。
だから元々人通りは少ないのだが、けれど今日は何時にまして誰も居なかった。
深夜ならばいざ知らず、この時間帯ならばもう少し外に人がいてもよさそうだが。

誰もいない。
閑散としている。
私だけが、こうしてこの道を歩いている。
田んぼの近くの、湿ったアスファルトをただ一人で歩いている。

人がいない訳ではないだろう。
現に辺りの住宅にはぽつぽつと明かりがついている。

やはり恐れているのか。
彼らはなにも知らない。
この街の一般人は、自分がどうしてここにいるのか、その本当の意義を知らないで生きている。
それでも彼らは感じ取っている。
どこか街がおかしくなっているのを。
自分たちの生きる境界が、徐々に崩れていっていることを。
その恐怖は漠然としたもので、決して明確な言葉にはなりえないが、それ故に噂として伝播する。

いわく血の色のドレスを纏った貴婦人が街をうろついている。
いわく廃れた教会に異様な雰囲気を醸し出す亡霊を見た。
いわく深夜に映る筈のない奇妙な番組が放送されている。
いわくこの街にはいま恐るべき淫婦が来ており、出会ってしまえば最期“絞り取られる”という。
いわく学園の事故は実はテロリストによる恐るべき武装蜂起の一環だった。
いわくマンションの倒壊で多くの人が死んだらしい――けれど実は、最初からそのマンションの住人は全員死んでいた。

購買部で黙々と業務をこなしているだけで、多くの噂が聞こえてきた。
学生たちの無責任な噂話だ。情報としての信用度は低いだろう。
しかし、奇妙な話が多いのも事実だった。
そうした噂に留まらない奇怪な事件も数多く存在する。
ここ数日話題になっている猟奇殺人事件。女が街で異様な暴力を振るう。最大のトピックであるマンション倒壊事件。

そうした噂を聞いた人々は、たとえ自分たちと関わりのないところの話であっても、何かがおかしいと感じ取り、部屋に閉じこもる。
あるいは逆に群れることを選ぶか。人の集まる都心の方は逆ににぎわっているのかもしれない。
何かが“おかしい”。だからどうにかして安全を求める。

そうした反応はしごく真っ当なことだろう。
人として、当然備えるべき生存本能だ。

しかし残酷なことに
彼らの考える“おかしなこと”こそが、この街本当の意義なのだ。


――セイバー

声には出さず呼びかける。
するとすかさず言葉が帰ってきた。

――大丈夫だ。誰も居ない。

と。
そうか。では私は本当に今一人なのか。
人通りのないところに出れば、もしかすると何かが――“蟲”か、あるいはあの“蛇”が接触してくるのではとも思ったが、杞憂だったようだ。
この分ならば、とりあえずこの一日は穏便に終われる。
昼にそう動くつもりはなかった。幾つか水面下で動きがあったのは感じていたが、明確に関わることは選ばなかった。
一先ず情報を洗い流し、これからの夜に備えなくてはならない。

坂を降り切ると、私の家はすぐそこにある。
田畑が広がる中、ぽつんと建つ質素な家屋。
最初にこの街の人間として配置されて以来、過ごしてきた拠点である。

引き払うべきか。

帰りつつも、私が決めあぐねていたことであった。
少なくとも“蛇”にマスターだと露見してしまった以上、この拠点を知られることは時間の問題だろう。
学園に根を張っているサーヴァントである以上、関係者の居場所を知ることはたやすい筈だ。
そのリスクを考えるのならば、今から帰ること自体が危険だ。
何か罠を張られている可能性もある。

そう思いつつも、私の足は家へと向かっている。
帰るべき場所、とされている、あの何もないような場所に。





月は今夜も異様に大きく見えた。
あの青白い顔に嗤われながら、今夜もこの街では殺し合いが起こるのだろう。
その果てに聖杯とラベルの貼られた何かを回収する。
街の真実の姿はあの方舟なのだから。

日常を騙る方舟。
その生活にも私は既に順応していた。
仮初の役割を全うしつつも、水面下での情報収集を欠かさず、他の陣営と接触していく。
聖杯戦争が始まってまだ日は浅いが、しかし環境に順応できなければ脱落するだけだ。

――だからもう慣れたことだった。その銀髪を見るのは。

私の“家”は街の外れにある。
地図上ではD-5と記された一角に、私は帰らなくてはならない。

外には誰も居ない。
恐ろしい獣が徘徊していることを感じ取っているから。
だからこそ、私は今までずっと一人でこの道を歩いてきた。
なのにあの少女は素知らぬ顔で街を歩いている。
まるで獣を手なずけているかのように……

その銀髪が月明かりにきらめき、それでいて薄暗い闇に沈み込んでいる。
まさしく夜というものを体現したかのような色をしている。
修道服が白い肌を覆い隠し、祈りに似たその表情は深い信心を感じさせた。

少女は近付いてくる。
向こう側から私へ向かって。

奇妙な静寂だった。
先程までも静かではあったが、無音ではなかった。
何も聞こえない訳ではなかった。誰もおらず、孤独ではあったが、風の音はしていた。
けれど、今この一瞬は凪だ。
私と少女の間に何かが訪れることはない。何もない空白があふれ出し、全ての音を奪っていってしまった。

何も言わない。
何も聞こえない。
そうしてそのまま私と彼女は近づき、

すれ違った。

すっ、と。
私と彼女は偶然同じ道を歩き、そして別れていった。
それで終わりだった。
視線を交えることもなく、言葉は漏らすこともなく、振り返ることもしない。
全て何もないままに、私と少女の邂逅は終わる。

私の家の近くには教会がある。
それ自体は別に何らおかしくはない。
どういう訳か購買部の店員などしているが、元々私は神父だった。
方舟がその縁を反映し、教会の近くに私の家を置いたのかもしれない。
それ自体は別に何も不都合はない。“監督役”が近くにいることは寧ろ好都合とさえいえる。


何も問題はない。
現に私は何も感じてはいない。

そんな筈はない。

そんな筈はないだろう。
“監督役”であるあの少女は■■■■だ。
あれを見て、私が、言峰綺礼が何も思わずにいられる訳がない。
だからこそ、初めてあれを見かけたとき、異様な胸苦しさを覚えたではないか。
一目見ただけで、すれ違っただけで、「無様」というしかない醜態を晒した。

何もかもが露と消え去り、見えなくなった。
それはまるで霧に放り込まれたかのような、そんな感覚だった。
最初にあれと会った時、私はそれを苦しみだと考えた。
ならばこそ、今も私は苦しまなくてはならない。

空には何もかもがなかった。
月の光も、夜の闇も、意味がなければそれはないのと同じことだ。

そうして私はたどり着いた。
何の変哲もない、質素で、最低限のものだけが揃った家屋。
ここが私の帰るべき場所だった。

考えた末、結局私はこの拠点に滞在し続けることにした。
元より魔術師の工房のような側面はなく、重要なものは特にない。
敵が来るとしたら“蛇”だが、あの陣営とは積極的に接触を図りたいところでもあった。
たとえ迎撃するにしても、慣れたこの場の方が動きやすいだろう。
故に最大限の警戒を持って、この場に留まるとする。

そうした理屈を付けて、私は帰ってきた。
音を立てて扉を開ける。その先にあるのはどこか見覚えのある。しかし懐かしいとは思わない。がらんどうな場所だった。
警戒の必要性はセイバーも分かっているだろう。彼の感覚が何かを捉えればすぐさま告げてくるはずだ。

そうして張りつめたまま、私は休息を取る。
しばらくここで肉体的な調整を図る。警戒と休息を同時にこなすことには慣れていた。
同時に情報の洗い出しも行う。今後の活動の指針を立てなくてはならない。
状況が見え次第、夜の聖杯戦争へと赴くとしよう。

椅子に腰かけながら、私は懐から一冊の手帳を出す。
“蛇”から手渡されたものだ。
こうしたものを扱うところを見るに、あのサーヴァントは魔術師の出自を持つ可能性が高い。
私は注意深くそのページをめくった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――
“監視役”と“裁定者”について。
―――――――――――――――――――――――――――――――――

指が止まった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――
 俺様はこれからあの女共と接触する。
 極めて穏便に、友好的な態度で接してやるつもりだ。
 できうることならば奴らと同盟し、その特権を利用させてもらう。
 そうでなくとも何かしら情報を得ることができるだろう。
 “監視役”の情報が欲しければ何時でも連絡するがいい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――

銀色の髪が、視界の隅で舞ったような気がした。。







私たちは知ろう
主を知ることを切に追い求めよう
主は暁の光のように、確かに現れ
大雨のように私たちのところに来
後の雨のように、地を潤される

(ホセア書)







「ああ、何て――」

教会へ帰って来るなりカレン・オルテンシアは口を開いた。

「何て――無様な男」

そして何度目になるか分からない、罵倒の言葉を吐いた。
その呟きを聞きつけて、ジャンヌは誰と会ってきたかを察した。

「またあのマスターと……」
「接触はしてませんよ。通りかかっただけです」

澄ました顔で語るカレンに、ジャンヌは苦い顔をする。
自分たちは中立。何か起こらない限り他の陣営に干渉することは許されない。
その前提はカレンも分かっている。進行役の職務は彼女も理解している筈だ。

「私が何となく散歩したいなーと思った時間が、偶然にもあの男の帰宅時間と重なってしまっただけです。
 それ以上の意味がある訳ないでしょう?」

白々しく言って彼女は薄く笑った。
その笑みには明らかに嘲りが含まれており、ジャンヌは息を吐いた。
要は“嫌がらせ”なのだ。

あの言峰綺礼という男に対し、カレンが姿を見せること。
それ自体が“嫌がらせ”になると、明らかにそう知った上で彼女は行動している。
趣味の悪い話だとは思うが、しかしまぁ監督役としての裁量を逸脱した行動を取っている訳でもない。
あくまでそれとなく、視界の端に移る程度に。
そんな風にして彼女は言峰綺礼に“嫌がらせ”をしている節がある。
あるいはもっと明確に干渉した方が、彼にとっては楽なのかもしれない。
それを知った上で、カレンは近づかず、かといって遠ざかりもしない、そんな立ち振る舞いを取っているのかもしれない。
だとしたら――やはり趣味の悪いことだ。

カレンと言峰。
二人の関係をジャンヌはよく知らない。
少なくとも何かしらの縁はあるのだろうが、立ち入ったことは聞いてもはぐらかされてしまった。
“真名看破”のスキルもサーヴァント以外には作用してくれない。

「それにしてもあの男」

カレンは微笑みを崩さず、かつ声に乗せる嘲りの色を濃くして呟く。

「まだあの家に住むようですね。
 効率を考えたのなら引き払ってもいいでしょうに。
 全く――知るのが怖いくせに」
「怖い?」
「ええ、彼は怖がっているのですよ。知ることを、知ってしまうことを。
 本当、馬鹿みたいな話――だって恐れる時点で、既に薄々と知っているってことじゃない。
 既に知ってしまっていることを、知りたくない、だなんてわめいたところで、何も意味はないでしょうに
 救いを求めていないのに、救われようとするようなものよ」

カレンの言葉にジャンヌは何も返せなかった。
カレンのことも、言峰綺礼のことも、彼女は知らないままだ。
それ故か、きょとん、とした顔をしてしまったかもしれない。

ふふふ、と愉しそうに笑ってカレンはその手を広げる。
流れる水のビジョンが結ばれた。
ムーンセルとアークセルを貫く、純粋なる情報の発露だった。
方舟内のマスターでは開くことができないそれを、監督役たる彼女は閲覧することができる。
ジャンヌは知る由もないことだが、その窓(ウィンドウ)はかつてムーンセルにおいてある姉妹が扱っていたものと酷似していた。
彼女らがサーヴァントという極めて情報密度の高い零子生命体に干渉したように、カレンもまた“監督役”として窓を使い“方舟”に干渉する。
無駄な話はここまでにして業務に移るということか。

「はじめましょうか――」

笑みを消し、どこか祈るような口調で彼女は言った。


「魂の改竄を」

と。

「“方舟”は魂を拾い上げるもの――」

カレンは窓を操作しつつ言葉を漏らす。。
それは反芻だった。先ほど岸波白野の問い掛けを受け、彼女が彼に与えた最低限の言葉を再度口にしている。。

「外郭はいくらでも流用できます。
 身体を構成する情報はゲノムとして解析され、記録されている。
 ムーンセルがそれを引き出すことはたやすい。人であろうと、ほかのありとあらゆる種であろうと」

カレンの言葉は続く。
誰に語っている訳でもないだろう。
強いて言うのならば――岸波白野か。あの時彼に告げることができなかった答えの続きを、届かないと知りつつも漏らしているのだ。

「けれど魂は違います。
 外郭はいくらでも引っ張り出せようが、その本質たる魂は別のもの。
 それをこの“方舟”は集めている」

魂――英語において「soul」と訳されるその言葉は元々ヘブル語の「Nephesh」から来ている。
それは元々呼吸を意味する言葉だ。
呼吸するものであれば――たとえ人でない獣であろうとも、そこには魂(Nephesh)があると解釈できる。
これは旧約聖書。創世記において獣にNepheshがあるとするテキストがあることからも明らかだ。
ここにおいては、魂とは、現代の価値観における生命体以上の意味を持たないことになる。

元より旧約聖書において、魂が肉体と対比されるようなテキストは存在しない。
魂の“発見”は新約聖書――キリストの“復活”を待たなくてはならない。
そうした流れの先に、キリスト教における魂が定義されていく。

「ムーンセルには情報がある。魂(Nephesh)については膨大な記述がそろっている。
 では魂(Soul)はどうでしょう」

魂(Soul)。
それはキリスト教においては人間の不滅の本質を意味する。
解釈こそ分かれるが、キリスト教徒の中には物心二元論を主張する者がいる。
かの聖アウグスティヌスの言葉が有名なように、キリスト教において肉体は魂に付属するものとされることがある。
身体とはいわば外郭のようなものであり、身体にはそれとは別に、その本質的な部分、命の核となるものが存在する。
それこそが魂である。

「そこが“方舟”とムーンセルの……」

そこでカレンは言葉を切った。
同時に数多くの窓が、ばっ、と開き、空間を埋め尽くしていく。
そこには多くの人がいた。窓の中には“方舟”の魂が記述されていた。

――聖杯戦争において“監督役”には情報操作が求められる。
この聖杯戦争の基となった舞台においても、戦争の進行と同時に様々な隠蔽工作がなされてきた。
とはいえそれも強大な組織力があってこそのものだ。この“方舟”において、カレンを補助するような組織は、今のところ、用意されていない。
故に情報操作の手順も異なるものがある。
彼女に与えられた権限こそ――

「では、これよりNPCの魂を改竄します」

――魂の改竄なのであった。
この“方舟”のNPCはムーンセルのそれと違い、己がNPCであるという自覚を持たない。
魂を持ったまま、それ以上の情報を与えられぬまま、放逐されている。

それを改竄(ハッキング)することこそが、この聖杯戦争における隠蔽工作である。

元々の設定として、指定の日常ルーチンから外れた現象に対しては反応が鈍くなっている。
その感度を更に鈍くする。ルーチンに強制力を持たせる。
一部報道機関に携われる者に関しては、より強力な改竄を施し、情報を操作する。

大魔王との決戦の余波を“局地的な地盤沈下と手抜き工事による崩落事故”となるように
月海原学園の水面下の争い、放課後の聖杯戦争を“爆発事故”となるように
NPCを改竄する。

そうして“方舟”の日常は守られる。
とはいえカレンが干渉できるのはNPCの魂に関することだけだった。
それ以上のこと、例えばインターネット上に流出してしまったデータを消すことなどはできない。
また起こった事実そのものを“なかったこと”にするようなことも無理だ。
“方舟”において時の流れは不可逆であり、それは監督役であろうとも曲げることができない。

よって人は日常を続けるが、しかし街にはどこか不穏な空気が蔓延するだろう。
完全に不安を拭える訳ではないのだ。
今はまだ何とか体裁を保っているが、どこかで決壊する可能性もある。
放逐された魂がフリーズするような事態に陥れば、もはやカレンにはどうしようもなくなってしまう。
そうなれば“方舟”が何かしら手を打つのかもしれないが、そこから先のことは彼女らにも分かっていなかった。


「…………」

カレンが魂の改竄を施す様に、ジャンヌは複雑な表情を浮かべる。
魂は神の言葉で記述されている。
聖杯戦争の運営の為とはいえ、またNPCという仮初の存在のものだとしても、それを改竄することは、果たして赦されるのか。
言葉の問題なのかもしれない。舞台に合せ、その工程が“改竄”と訳されているからこその印象なのか。
同じことが“自害”にも言えた。実質的な排除であるとはいえ、大罪であるそんな言葉を命じることに、ジャンヌは迷いがあった。
多くのジレンマがある。抵抗を覚えないといったら嘘になる。
それを背負った上で、彼女は“裁定者”を担っている。

「ところで“啓示”の方はどうでしょうか?」

改竄を続けつつ、カレンがジャンヌに問いかけてきた。
啓示。
それはルーラーとして与えられた、今後の指針を示すスキル。
とりあえず現状の情報統制に関してはどうにかなりそうだが、聖杯戦争が止まることはない。
これから先も多くの問題が発生するだろう。それを予期した問いかけだった。
問われたジャンヌは一度、すっ、と目を閉じた。

黙祷するように天を仰ぎ見る。
月明かり差し込む教会の中で、金の髪がほのかに煌いた。
意識が空白になり、世界が白く広がっていく。

間があって――

「街――橋のこちら側でまた何かが起ころうとしています。
 恐らく、今夜……」

――ふとジャンヌは告げる。
その言葉がどこから来たものか、彼女自身説明することはできない。
ただ意識の奥より湧いて出た。因果も何もありはしない。
そうした言葉に、カレンは「そうですか」と返すのみで、あとは小さく息を吐いた。

「どうやら今夜も忙しくなりそうですね。
 まぁ夜ですし、そちらで何か起こることは想定内です。
 介入の必要があるかは別として、出向いて事態の把握だけはする必要があるでしょう」

介入する必要がなくとも、“啓示”があった以上、実際に何が起こったかは把握しなくてはならない。
ジャンヌだけでも状況を窺う必要があるだろう。

「私はあとの作業はやっておきますから、あなたはとりあえず目ぼしい場所に向かってみてください」
「分かっています」

目を開き、ジャンヌはゆっくりと歩き出す。
一日中この“方舟”を駆け回った彼女だが、しかしそこに疲れは見えなかった。
その身体を支えるのは狂的までの使命感である。

こつ、こつ、と教会に靴音が響く。
その足取りに迷いはなかった。
迷いやジレンマはある。あるが、だからといって立ち止まることはない。
彼女は聖女であるが、決してそれを自称したことはない。
何故ならば知っているから。
その手が既に赤く染まっていることを知った上で、その信心は揺らぐことのない。

皮肉なことに、そんな狂気――あるいは矛盾に似た歪みがあるからこそ、彼女は聖女なのだった。

「では行ってらっしゃい。夜へ――」

去り際に、カレンはそう漏らしていた。
ジャンヌは答えない。ただ一人、夜へと降り立った。
カレンはその背中を見つめながら、愉快そうに目を細めた。








……そうして聖女は教会より去った。
あとには一人の少女だけが残された。

今日の夜は静かだった。
不安に紐付けされた静寂が夜を漂っている。
その静寂が押し寄せてきたか、街と同じように、夜の教会もまた静まり返っていた。

教会の中、礼拝堂にカレンはいた。
見上げれば遥かかなたに天井があり、幾多もの荘厳な装飾が走っている。女神の像もあれば、天使の絵も掲げられている。
巨大なステンドグラスほのかに青い光が差し込む下、椅子は幾重にも連なるように置かれているが、そこには誰もいない。
そして奥には巨大なパイプオルガンが鎮座している……

静かだった。
誰もいない。何もありはしない。暗闇と月光だけが漂っている。
そんな中で彼女は黙々と魂の改竄を続けていた。静寂の中、時節処理音が細々と漏れ出した。
窓が開いては閉じる音がかすかに響く。それは水が流れ落ちる音に似ていた。

純粋なる情報の流れに包まれながらも、カレンは考えている。
言峰綺礼について。
すぐ近くで空疎な行動を続けている彼のことを。
ある意味で唯一無二の、しかしその実まるで関係がないような、そんな奇妙な関係が彼との間にはある。
彼に言うべきことは何もない。
敢えて言うならば、

――無様

あるいは

――馬鹿ね

それだけだ。そんな言葉でさえあの男には十分過ぎる。
罵倒するだけの価値もない。故にカレンはあの男に明確な言葉を投げかけたことがない。
ただ会うだけだ。
顔を見せるだけ――それだけでも、あの男には耐え難いことのようだが。

それでもあの男はこの“方舟”にいる。
その魂を拾い上げられる形で、ここまでやってきた。
彼は自身の魂のカタチを知っている。知っていて、直視ができないでいる。

――ああ、そんなことだから……

魂がどこから来たものであるか、そのテーマはキリスト教において長年議論を呼んでいるものである。
転生を前提とする異教と違い、キリスト教には天国と地獄の概念がある。復活と転生は違うものだ。
神の言葉が受肉したものとする考えがある。血縁に由来すると考えた者もいる。その閃きこそが復活とする主義もあった。
魂と一口に訳されてはいるが、元々はネフェシュであり、プシュケーである。

言峰綺礼の魂のカタチが――起源がどこからやってきたかは分からない。
その真理に人はまだ到達していない。
しかし、認めなくてはならない。
たとえそれがどこから来たものであれ、そういうカタチを持ってしまっていることは事実であると。
肯定するにせよ、否定するにせよ……

「…………」

そんなとりとめのない、さして意味のない考えを続けながら、カレンは魂を改竄する。
細い指が滑らかに動いた。その様はまるでピアノを弾くかのよう。
月明かりが魂を照らし、夜は静寂に満ちていく――

『“監督役”よ』

――不意に静寂が破られ、カレンの指が止まった。
声だった。
どこかかなたより、その声は響いてきた。

『少し話がある』

誰かが言った。夜には獣がやってくると。
凶暴な獣に出くわさぬよう、夜は外に出るべきではないと。
けれど本当に恐ろしいのは獣ではないのだ。
獣とは無垢なものだ。かつて人がそうであったように、何も知らないままでいる。
人は知ってしまったから獣ではいられなくなった。
全てを失い、それが購うべき罪となった。

『俺様とな』

だから人が本当に恐れるべきは“蛇”なのかもしれない。


【D-5/言峰宅/一日目 夜間】

【言峰綺礼@Fate/zero】
[状態]健康
[令呪]残り三画
[装備]黒鍵
[道具]変幻自在手帳
[所持金]質素
[思考・状況]
基本行動方針:優勝する。
0.愉悦を覚えるなど……断じて許されることではない……!
1.???
2.黒衣の男とそのバーサーカーには近づかない。
3.検索施設を使って、サーヴァントの情報を得たい。
4.トオサカトキオミと接触する手段を考える。
5.真玉橋や屋上にいた女(シオン)の住所を突き止め、可能なら夜襲するが、無理はしない。
6.この聖杯戦争に自分が招かれた意味とは、何か―――?
7.憎悪の蟲に対しては慎重に対応。
8.蛇使いのサーヴァント(ヴォルデモート)に対し興味。
[備考]
※設定された役割は『月海原学園内の購買部の店員』。
※バーサーカー(ガッツ)、セイバー(ロト)のパラメーターを確認済み。宝具『ドラゴンころし』『狂戦士の甲冑』を目視済み。
※『月を望む聖杯戦争』が『冬木の聖杯戦争』を何らかの参考にした可能性を考えています。
※聖陣営と同盟を結びました。内容は今の所、休戦協定と情報の共有のみです。
 聖側からは霊地や戦力の提供も提示されてるが突っぱねてます。
※学園の校門に設置された蟲がサーヴァントであるという推論を聞きました。
 彼自身は蟲を目視していません。
※トオサカトキオミが暗示を掛けた男達の携帯電話の番号を入手しています。
※真玉橋がマスターだと認識しました。
※寺の地下に大空洞がある可能性とそこに蛇使いのサーヴァント(ヴォルデモート)や蟲の主(シアン)がいる可能性を考えています。

【セイバー(オルステッド)@LIVE A LIVE】
[状態]通常戦闘に支障なし
[装備]『魔王、山を往く(ブライオン)』
[道具]特になし。
[所持金]無し。
[思考・状況]
基本行動方針:綺礼の指示に従い、綺礼が己の中の魔王に打ち勝てるか見届ける。
1.綺礼の指示に従う。
2.「勇者の典型であり極地の者」のセイバー(ロト)に強い興味。
3.憎悪を抱く蟲(シアン)に強い興味。
4.強い悪意を持つ蛇を使うサーヴァントに興味。
[備考]
※半径300m以内に存在する『憎悪』を宝具『憎悪の名を持つ魔王(オディオ)』にて感知している。
※アキト、シアンの『憎悪』を特定済み。
※勇者にして魔王という出自から、ロトの正体をほぼ把握しています。
※生前に起きた出来事、自身が行った行為は、自身の中で全て決着を付けています。その為、『過去を改修する』『アリシア姫の汚名を雪ぐ』『真実を探求する』『ルクレチアの民を蘇らせる』などの願いを聖杯に望む気はありません。
※B-4におけるルール違反の犯人はキャスターかアサシンだと予想しています。が、単なる予想なので他のクラスの可能性も十分に考えています。
※真玉橋の救われぬ乳への『悲しみ』を感知しました。
※ヴォルデモートの悪意を認識しました。ただし気配遮断している場合捉えるのは難しいです。


【D-5/教会/1日目 夜間】

【ルーラー(ジャンヌ・ダルク)@Fate/Apocrypha】
[状態]:健康
[装備]:聖旗
[道具]:???
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争の恙ない進行。
1.啓示(橋のこちら側)で起こる何かに対処する。
2.その他タスクも並行してこなしていく。
[備考]
※カレンと同様にリターンクリスタルを持っているかは不明。
※Apocryphaと違い誰かの身体に憑依しているわけではないため、霊体化などに関する制約はありません。
※カッツェに対するペナルティとして令呪の剥奪を決定しました。後に何らかの形でれんげに対して執行します。
※バーンに対するペナルティとして令呪を使いました。足立へのペナルティは一旦保留という扱いにしています。
※令呪使用→エリザベート(一画)・デッドプール(一画)・ニンジャスレイヤー(一画)・カッツェ(一画)

【カレン・オルテンシア@Fate/hollow ataraxia】
[状態]:健康
[令呪]:不明
[装備]:マグダラの聖骸布
[道具]:リターンクリスタル(無駄遣いしても問題ない程度の個数、もしくは使用回数)、???
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争の恙ない進行時々趣味。
1. 魂の改竄。そして……
2. ルーラーの裁定者としての仮面を剥がしてみたい。
3. 言峰綺礼に掛ける言葉はない
[備考]
※聖杯が望むのは偽りの聖杯戦争、繰り返す四日間ではないようです。
 そのため、時間遡行に関する能力には制限がかかり、万一に備えてその状況を解決しうるカレンが監督役に選ばれたようです。他に理由があるのかは不明。
※管理役として、箱舟内のニュースや噂などで流れる情報を操作する権限を持っています。
 →操作できるのはあくまで「NPCの意識」だけです。報道規制を誘発させることはできますが、流出してしまった情報を消し去ることや、“なかったこと”にすることはできません。


【キャスター(ヴォルデモート)@ハリーポッターシリーズ】
[状態]健康、魔力消費(中)
[装備] イチイの木に不死鳥の尾羽の芯の杖
[道具]盾の指輪(破損)、箒、変幻自在手帳
[所持金]ケイネスの所持金に準拠
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯をとる
1.ルーラーとの同盟のため動く。上手くいかなかった場合ルーラーに敵対するものを煽り、それをルーラーに処断させるべく画策する。
2.綺礼に強い興味、連絡に期待。エルトナムも一応期待しているが、アーチャーには警戒。
3.〈服従の呪文〉により手駒を増やし勝利を狙う。
4.ケイネスの近くにつき、状況に応じて様々な術を行使する。
5.ただし積極的な戦闘をするつもりはなくいざとなったら〈姿くらまし〉で主従共々館に逃げ込む
6.戦況が進んできたら工房に手を加え、もっと排他的なものにしたい

[備考]
※D-3にリドルの館@ハリーポッターシリーズがあり、そこを工房(未完成)にしました。一晩かけて捜査した結果魔術的なアイテムは一切ないことが分かっています。
 また防衛呪文の効果により夕方の時点で何者か(早苗およびアシタカ)が接近したことを把握、警戒しています。
※教会、錯刃大学、病院、図書館、学園内に使い魔の蛇を向かわせました。検索施設は重点的に見張っています。
 この使い魔を通じて錯刃大学での鏡子の行為を視認しました。
 また教会を早苗が訪れたこと、彼女が厭戦的であることを把握しました。
 病院、大学、学園図書室の使い魔は殺されました。そのことを把握しています。
 使い魔との感覚共有可能な距離は月海原学園から大学のあたりまでです。
※ジナコ(カッツェ)が起こした暴行事件を把握しました。
※洗脳した教師にここ数日欠席した生徒や職員の情報提供をさせています。
→小当部の出欠状況を把握(美遊、凛含む)、加えてジナコ、白野、狭間の欠席を確認。学園は忙しく、これ以上の情報提供は別の手段を講じる必要があるでしょう。
※資料室にある生徒名簿を確認、何者かがシオンなどの情報を調べたと推察しています。
※生徒名簿のシオン、および適当に他の数名の個人情報を焼印で焦がし解読不能にしました。
※NPCの教師に〈服従の呪文〉をかけ、さらにスキル:変化により憑りつくことでマスターに見せかけていました。
 この教師がシオンから連絡を受けた場合、他の洗脳しているNPC数人にも連絡がいきヴォルデモートに伝わるようにしています。
※シオンの姿、ジョセフの姿を確認。〈開心術〉により願いとクラスも確認。
※ミカサの姿、セルベリアの姿を確認。〈開心術〉によりクラスとミカサが非魔法族であることも確認。
 ケイネスの名を知っていたこと、暁美ほむらの名に反応を見せたことから蟲(シアン)の協力者と判断。
※言峰の姿、オルステッドの姿を確認。〈開心術〉によりクラスと言峰の本性も確認。
※魔王、山を往く(ブライオン)の外観と効果の一部を確認。スキル:芸術審美により真名看破には至らないが、オルステッドが勇者であると確信。
※ケイネスに真名を教えていません。




「聖書というのは多くの謎……というか矛盾を孕んでいるものなのですね。
 最初の最初、創世記の天地創造の時点で食い違ってしまっている。
 獣や植物がまずあってそこから人が創造された、という記述があるのに、あとでは先に人を創ったと書かれている。順序がおかしくなっている。
 これは文体などの違いなどから、著者、時代が違うからだと考えられています」
「要するにプラズマだ。科学的根拠がない話はプラズマで片がつく」
「そうかもしれませんねぇ……
 とはいえその矛盾を矛盾のまま放置する訳にもいかず、教徒たちは必死に辻褄を合わせようとする訳ですね。
 元がよく分からない、矛盾したものだからこそ、解釈のしようがあるともいえる」

教師、ケイネスが休息を取るため職員室に帰ってくると、そんな応酬が繰り広げられていた。
同僚にあたる教師たちであった。彼らはケイネスのデスクの向かい側で妙なことを言い合っている。

「そのほかにもよく分からないこともある。
 たとえばあの有名なパラダイス・ロスト。アダムとイヴの楽園追放の件です。
 彼らは“蛇”にそそのかされ、知恵の実を食べてしまった結果、それが“罪”へと繋がった訳です。
 さて、この逸話。どうにもおかしなことがないでしょうか」

仮初の同僚に関しての知識を呼び起こす。
飄々とした口調で何やら語っているのは保健室の先生だった。
ぼさぼさの頭に眼鏡を掛け、ひょろりと痩せた外見は健康的とは言いがたく、保健体育の教師のイメージとはかけ離れている。

「なるほど確かに追放の科学的根拠がない」

対するのは確か高等部の物理教師だっただろうか。
風紀委員会の顧問も取り持つ彼は奇矯な言動で有名だった。

「アダムとイヴの果たして何が罪だったのでしょうか。
 知恵の実を食べたことでしょうか。“善悪”を知ったことでしょうか。
 何かを“知ったこと”を罪としてしてしまうと、どうにもしっくりと来ない。
 解釈によっては“知ること”自体が悪となってしまう。
 “無知”が奨励されてしまうような、そのような事態になっているのです。
 “無知”は純粋無垢で好ましい姿であると、そう聖書には書かれているのでしょうか。
 これはちょっと妙な感じがします。
 まぁこの逸話自体、なぜ絶対に食べてはいけないような実を、エデンの園の真ん中に植えたのか、という疑問もあるのですが」

ケイネスは息を吐く。無視することにしよう。ただでさえ疲れているのだ。
生徒の帰宅、状況の把握、今後の動向についての会議等、ケイネスは膨大な業務に忙殺されていた。
夕方より続いていた業務は日が落ちてなお続き、結果こんな時間になってしまった。
こんなことをしている場合ではない。そう思いつつもキャスターの命に背くわけにはいかない。
とにかく全力で事の収集に当たった。その結果ケイネスは多大な疲労感を覚えていた。
我が君たるキャスターが十全に活躍できるよう、自身は磐石の態勢を維持するのだ。

キャスターは今その思惑に従い行動を開始している。
職務がケイネスの長引くと判断した彼はケイネスと一時離れた行動をしている。
その類まれな知略をもって“監督役”との接触を図っているはずだ。
次なる指示が下るまでに多少の時間がある。
それまで少しばかり休息を取るとしよう。ジナコの件などまだ残っている案件もあるが、生徒も帰宅し一先ずは区切りがついた。
そう思い、ケイネスは椅子に深く腰掛けた。


「おや、ケイネス先生、ようやくそちらも終わりになられましたか。
 お疲れ様です。いや何だか妙な事件でしたねぇ」

無視しようと思っていたのに、保健教師が話しかけてきた。
ケイネスは面倒に思いつつも「そうだな」と返しておく。

妙な事件――とされているものは、聖杯戦争の余波だ。
“蟲”の件や中等部校舎の先頭。それらの表向きの処理に今の今までケイネスは付き合っていたのである。
その処理自体は――面倒ではあるが――必要なことであるとケイネスは考えていた。
魔術の秘匿は神秘に関わる者として当然備えている考えである。
本来ならば“監督役”がなすべきことであると思うが、しかし彼の立場として可能な限りのことはやった。
職員会議では“爆発事故”として処理されるとのことだった。
また授業も、校舎に被害があった中等部を除いて、明日も予定通り行われるとのことだった。
本来ならばいささか緩すぎる対応だったが、市井の学園を知らないケイネスはそのことに気づかなかった。

「しかし爆発事故といっても妙な話ですよねえ」

保健教師は薄ら笑いを浮かべながら語る。

「そんな危険なものを持ち込む生徒が果たしているでしょうか。
 銃声が聞こえたなんて話もありますし。
 何でも学園に潜むテロリストの仕業だなんて噂もありますし」
「発表に寄れば、そのような痕跡は認められていないとのことだが」
「確かに生徒たちの無責任な噂に過ぎませんし、テロリストはいくらなんでも突飛だと思います。
 が、しかし図書室の方で荒らされていましたね。
 これは何かあると思いませんか?」
「何か、といわれても困るが」

妙に追求してくる教師にケイネスは身構える。
もしやこの男――マスターではないか。そう思い、緩めていた意識を呼び起こすが、

「だから言っているだろう。プラズマ、だと。科学的根拠のない迷信は全てプラズマで解決できるのだ。
 お前の語るようなオカルトなど起こりうる訳がない」
「そうですねぇ……そうかもしれません。しかし私は思うのですよ、世の中には私たちの知らない部分も」
「ない。あるとすればそれはプラズマだ」
「しかし話は聖書に戻りますが、あそこでは……」

相も変わらず益体もない話を続ける教師たちを見て、ケイネスは息を吐いた。
全く持って品性の感じられない姿だった。マスターだとしても警戒するに達していないだろう。
既に学園を手中に入れつつあるキャスターから、隠れ潜むことができるとも思えなかった。
やはりここは無視しよう。そう思っていたのだが、

「ところでケイネス先生。食事はどうですか、先ほど出前を取っておいたのですが」

……保健教師がひょい、と袋を見せたとき、思わず反応してしまった。
それはその辺りの道に売っているような、大衆向けのチープな料理であった。
普段のケイネスならば口にすることは絶対になかっただろうが、

「……もらおう」

漂う香ばしい臭いに耐えられず、受け取ってしまった。
ケイネスは空腹だった。
昼食は異常な味付けの中華料理を取ってしまったせいで碌な食事にならず、放課後からは休みなしで働き続けた。
それ故、とにかく何か口にしたい心地であったのである。

「どうぞ、どうぞ、いや本当に疲れましたねえ」

保健教師はそう言って、ふう、と息を吐く。
そこには濃い疲労の色が見えた。
話によれば爆発の余波で保険室はごった返していたと聞く。それをほぼ一人で彼は処理していたのだろう。
見れば物理教師にも同じようなものだった。風紀委員を統率する者として活動したのだろう。

奇矯な者たちであるが、彼らもまた疲れている。
自分と同じように、日常を守るために。
牛丼を頬張りながらその事実と相対して、ケイネスは不思議な連帯感のようなものを感じてしまった。
同時に苦楽を越して業務を終えた。その達成感も。

――馬鹿な。

どうやら本当に疲れているらしい。
胸に滲む想いを慌てて否定する。これはあくまで仮初の業務である。
魔術師の、それも聖杯戦争でやるようなこととはかけ離れている。
そう思いつつも、牛丼を口にする。今までにない不思議な味がした。


「……仏教では“無知”とは明確に否定されている。諸悪の根源のような扱いなのです。
 しかし聖書において否定されていない、ともすれば肯定されているとも取れてしまう。
 これは思想の違いでしょうか?
 いえいえ、キリスト教徒も“無知”であれ、だなんてことはやっぱり言わない。
 ホセア書などでは大々的に“私たちは、知ろう”と書かれています。
 後年においてはプラトン哲学などの影響もあるのですが、やはり“無知”を奨励するようなことにはならない。
 アウグスティヌスは“知識あるものの腐壊は無知である”だなんて言っていますし。
 ではアダムとイヴはなぜ“知った”ことで楽園を追放されたのでしょうか」

話はなおも続いている。
ケイネスは既に聞いていない。空腹が満たされるにつれ意識がぼうっとしていた。

「さてここからは諸説あるのですが、そもそもキリスト教において“善悪”とは何なのでしょうか。何と位置づけられているのでしょうか。
 有名な一節がありますね。“右頬をぶたれたら左頬を差し出せ”。隣人愛の概念です。
 キリスト教において“善”とはつまり利他精神なのですよ。
 つまり集団、社会全体へとまつわるものが“善”です。
 一方で“悪”は“善”でないものになります。
 この場合は、孤独です。
 “善”が社会的なものであるならば、“悪”は反社会的なこと、利己的なことになるのですね。
 創世記においては悪は一人でいることだなんて記述もあります。
 ――おや? ケイネス先生お眠りですか?」

言われてケイネスは、はっ、とする
眠りこける訳にはいかない。今自分は戦場にいるのだ。
仮初の業務に身を落としているが、気を抜くわけにはいかない。
何か飲むか。そう思い、ケイネスは立ち上がる。

「お気づきでしょうか? “知ること”はそれ自体“善”でも“悪”でもないのです。
 “善悪”の軸から外れたところにあるのですね。
 だからある意味で“知ったこと”はどうでもいいともいえる。
 楽園追放、創世記三章の問題は別のところにあった。
 解釈は様々ですが、神がアダムとイヴに“罪”を犯すことを期待していた、なんて説もあるくらいです」

その間も保健教師の言葉は続いている。
一応物理教師相手に話しているようだが、どうにも会話が成り立っているようにはみえない。
どちらも言いたいことを言えればそれでいいのかもしれなかった。

「何にせよ“知ること”は“善”でもなければ“悪”でもありません。 
 “無知”は否定されていますが、ただ“知った”ことで楽園から追放されることもある。
 難しいものですねぇ……」


【C-3 /月海原学園、教職員室/一日目 夜間】
※一連の戦闘は“爆発事故”として処理されました。
 中等部を除き、明日以降は平常どおり授業があります。

【ケイネス・エルメロイ・アーチボルト@Fate/Zero】
[状態]健康、ただし〈服従の呪文〉にかかっている
[令呪]残り3画
[装備] 月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)、盾の指輪
[道具]地図 、自動筆記四色ボールペン
[所持金]教師としての収入、クラス担任のため他の教師よりは気持ち多め?
[思考・状況]
基本行動方針:我が君の御心のままに
1.キャスターの帰りを待つ。
2.他のマスターに疑われるのを防ぐため、引き続き教師として振る舞う
3.教師としての立場を利用し、多くの生徒や教師と接触、情報収集や〈服従の呪文〉による支配を行う
[備考]
※〈服従の呪文〉による洗脳が解ける様子はまだありません。
※C-3、月海原学園歩いて5分ほどの一軒家に住んでいることになっていますが、拠点はD-3の館にするつもりです。変化がないように見せるため登下校先はこの家にするつもりです。
※シオンのクラスを担当しています。
※ジナコ(カッツェ)が起こした暴行事件を把握しました。
※B-4近辺の中華料理店に麻婆豆腐を注文しました。
→配達してきた店員の記憶を覗き、ルーラーがB-4で調査をしていたのを確認。改めて〈服従の呪文〉をかけ、B-4に戻しています。
※マスター候補の個人情報をいくつかメモしました。少なくともジナコ、シオン、美遊のものは写してあります。






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