月を望む聖杯戦争 ◆Ee.E0P6Y2U


……月が綺麗な夜だった。

彼がその坂を登るのは何度目だっただろうか。
僅かに息荒くしながら彼はたった一人で歩き続ける。
その途中風が吹く。道沿いに生い茂る木々がざわざわと生き物のように揺れた。
こんなにも涼しくて気持ちの良い夜だというのに、彼の身体はじっとりと汗ばんでいる。

この山のせいかな。
彼は学生服の襟元を正しながら思った。
その視線の先には延々と続く坂道だ。艶のないアスファルトの道が月に照らされぬっぺりと浮かび上がっている。
ゆるやなに蛇行しているため坂の上に何があるかまでは見えなかった。

こんなにも長い坂道では帰るのも一苦労だ。
この山の上には幽霊が出ると噂の屋敷があるが、幽霊だってこんな山の上には住みたくないに違いない。
と、そこまで考えたとき、あんな坂は山とは認めない、といっていたクラスメイトを彼は思い出した。純朴だが、変な奴だった。

実際、山というのには少し無理があった。それなりに長く、それなりに急な坂であるが、それでも一時間もあれば登り切れてしまう。
だから疲れはするが、別に登れない訳ではない。特に今日は月が綺麗だ。

彼は空を見上げた。都会の雑踏から逃れくっきりとその存在を示す星々の中心、漆黒の夜を背景に真ん丸と光る大きな月がある。
あれはきっと満月だろう。彼は理由もなく決めつけた。
あれがあるから今日は楽だ。実際、深夜にこの坂を上るのに道沿いに備えた電灯では少々心もとない。足下が見えるだけ楽なのだろう。

空を見上げる彼の頬をと不意に風が撫でた。熱がすう、と引いていくのが分かった。
寒いとまではいかなかったが、汗ばんだ体に冷えた風は少し堪えた。

早く帰った方がいい。
冬はまだ遠いとはいえ、こんな夜<じかん>なのだから。
そう思い彼が足を進めようとしたとき、

「……あら」

――美しく響く銀色の声を聞いた。

そこには一人の少女がいた。
金色に光る瞳は夜の中浮かび上がる。その肌はぞっとするほど白い。
そして、おかしなくらい美しい月に照らされ、その銀色の髪は艶やかにきらめいた。

声は出なかった。
その美しさに見蕩れたか、少女の持つ妖しげな雰囲気に気圧されたか、彼は呆けたように彼女を見ていた。

「こんなところで“マスター”に出会うなんて、少し意外でした」

が、対する少女は素っ気ない。自分との邂逅を、意外と言いつつも何でもないことのように語った。
吹きつける風に真っ黒な服が音を立ててたなびく。そこでようやく彼は少女が法衣服を纏っていることに気付いた。
シスターなのだろうか。そんな、あまりにもぼんやりとした印象を、彼は抱いた。

ひゅうう、と風が吹いた。
少女の髪が舞った。銀色が月光に溶け込むようだった。

吹きつける風に彼は身体を震わせる。
……今度ははっきりと寒気を覚えた。

早く、早く帰らなくてはならない。

「…………」

だが彼は足は止まっていた。歩くどころか、指先一つ動かせない。
だって、少女が見ているから。
金色の瞳はまっすぐに自分を射ぬいている。その無機質な視線は、あたかも自分の価値<バリュー>を測ろうとしているかのよう。
見竦められた彼は不思議な息苦しさを覚えた。ここにあるだけで、何か罪を覚えているかのような、奇妙な居心地の悪さがそこにはあった。
少女がシスター服を着ているから、なのだろうか。

彼は手に持った学生鞄を手放さないようぐっと手を握りしめた。
教科書やら新聞部の資料やらの、ずっしりとした重みが少しだけ心地よかった。

「いえ。どうやら貴方は“まだ”のようですね」

……しばらくして、少女は興味を失ったように彼から視線を外した。
そしてふぅ、と息を吐く。そこには僅かに失望の響きがあった。

「“マスター”でないのなら、私に会ったところで何も意味がありません。
 少し早かったですね、私に会うのが」

少女はそう言ったきり、彼の方を見なかった。
その言葉の意味は分からない。
自分が何か失敗したのだろうか。

……そう思いはしたが、それ以上に視線から逃れられた安堵が大きかった。
彼はほっと胸をなでおろす。降りかかっていた圧迫感から逃れられたようだった。

彼は迷いつつも、再び歩き始めた。
何かを探すように坂を見つめる少女を無視して、彼は帰ろうとする。
もうこれ以上、彼女の前にはいたくなかった。

「ああ、それと一応」

すれ違いざま、少女がぽつりと漏らした。

「名乗っておきます。今の貴方には無用の情報でしょうが、近いうちに必要になると思われますので」


彼はもう少女を見ていない。恐らく少女も彼を見ていないだろう。
淡々と仕事をこなす、事務的な素っ気なさで彼女は言った。

“――――――カレン”

機械を思わせる冷淡な口調でありながら、しかしその名は、人を思いやる上質な音楽のように胸に響いた。

「カレン・オルテンシア。私の名前です」

そう彼女は名乗り、そして去って行った。
夜道はくれぐれもお気をつけを、と最後に付け加えて。

そうして彼は歩き続ける。
凍てつくよう月の光を受け、彼は一人歩いていた。

結局彼は、少女に対し一言も喋ることができなかった。






そうして坂を上り切ると、そこには大きな門があった。
例の幽霊屋敷のものだろう。その門は、来訪者を拒むようにそびえ立っている。
錠前はついていないようだった。入ることだけなら、誰でもできるだろう。

本当に人が住んでいるのだろうか。
門の向こうに続く薄暗い林道を眺めながら、彼は少し疑問に思った。

幽霊だって住みたくないだろう、と先程は思ったが、
それこそ幽霊でもなければこんなところ、住めないのではないだろうか。

彼は何となしに門に触れた。ぎぃと錆びついた鉄の音がする。
硬く、冷たく、来る者を拒絶するような門。しかしこの門はいま開いている。
迷い込む者を口を開けて待っているのだろう。人をおかしな世界にぱっくりと呑み込むことを、この門は待っている。
この先にいけば、きっと――

風が吹き続けていた。
夜の林はいまや歌っている。あちらでも、こちらでも、揺れ動く木々が奇妙な音を立てていた。
彼は森全体がバケモノになった気がした。
バケモノはこうささやいている。

カエレ
カエレ
カエレ

と。

「帰ら、なくちゃ」

ようやく彼は口を開いた。
その声は変に上ずっていた。自分の声だと言うのに、初めて聞いたようなおかしな乖離がそこにはあった。
それでも、自分がするべきことを確かめ、彼は門から離れ自分の道を行こうとする。
意を決して一歩を踏み出そうとした。

しかし、彼は幽霊を見た。

「え」

見て、しまった。

幽霊は森に現れた。
静まり返った夜の中、白い顔がぬうっと浮かび上がってきたのだ。
そのヒトガタは人と呼ぶには小柄過ぎた。膝までの丈しかないような小人が、闇に溶け込むような黒いローブを羽織っている。
――真っ白な髑髏が夜の中浮かび上がった。

声は出なかった。悲鳴すら上げられない。
こんなにも近くにいるのに、今の今まで気配すら感じることができなかった。
その事実に彼はぞっ、と総毛立つ。

一秒もなかったと思う。
彼は一目散に駆け出していた。
学校<にちじょう>のものが詰まった鞄を放り投げ、去ろうとしていた異界への門を通り抜けた。
そして、とにかく走る。

走る。走る。走る。汗が吹き出て、視界が歪み、足が悲鳴を上げようと彼は走り続けた。

は、は、は、と彼は必死に息をする。
苦しかった。辛かった。しかし止まる訳にはいかなった。
止まればアレがする。アレは駄目だ。追いつかれれば、自分はただ死ぬしかない。
何故だか知らないが彼はそう確信していた。乱れぼやけ曖昧な意識の中にあって、その事実だけははっきりとしていた。

――だってあれはサ雎ァ縺トじゃないか。サ雎ァ縺トに人は勝てない。それが聖h縺戦¥譁というものだろう、

彼は叫びたかった。助けて、と。
だが声は出なかった。言葉が見つからない。あるべきはずの言葉を、自分は知らないのだ。


――メモリーを、預けた記憶を返してもらわなくては。

でも、帰らないと。カエラナイと。
その思いが意識を探る彼の手を邪魔する。
もう指先はかすっている。あとほんの少し、少しだけ手を伸ばせば、届くと言うのに……!

逃げ続けながら彼は必死に手を伸ばす。
あった筈の記憶へ、持っていた筈の想いへ、秘めていた筈の悲願へ、魔術師<ウィザード>としての力へ、
ただ生き残る為に。

だが、届きはしなかった。
だって、それよりも速く暗殺者<アサシン>が追いついてきたのだから。
そもそも勝負にすらなっていなかっただろう。
小柄な体を生かした俊敏な動きを長所とするサ雎ァ縺トに、ただの人間が逃げようなどというのは。

あれ、と彼は思った。身体が急に動かなくなっていた。
変な音がした。すると何故だか力が抜けて、気付けば鈍い音を立て地面に突っ伏していた。
ぎこちなく彼は首を動かした。すると大きな大きなお屋敷が見えた。ああこれが幽霊屋敷か、と納得する。古い造りをしたそれは、いかにもな外観をしていた。
事実幽霊が立っている。突っ伏した彼を見下ろし、手に持った刃をてらてらと赤く光らせながら。

「他愛ない。目覚める前のマスターなどこんなものか」

不意に、幽霊はそんなようなことを言った気がした。
笑っているような、泣いているような、奇妙な表情をした面が彼を無慈悲に見下ろしていた。

「本来はルールに抵触しているそうだが、これも主人の命令だ」

幽霊の言葉は遠い。目の前にいるはずなのに、ずっと向こうの方から聞こえているような心地がした。
どういうことだろう、と疑問に思ったが、すぐに答えが出た。
ああ、遠のいているのは自分の意識の方か。

幽霊が近づいてくる。その手には刃がある。
確実にトドメを刺すつもりなのだろう。万が一生き延びることがないように。

そうして死が彼に触れようとしたとき、

「そこまでです、アサシン」

凛とした声が響いた。

「一般NPCの大量殺戮は禁じられています」

遠のく意識を何とかつなぎ留める。少しでも気を抜けば持っていかれそうだ。
それでも彼は何とか顔を上げた。ここでオイテイカレる訳にはいかない。
そして、一人の聖女を見た。

「貴方は既に再三の警告を受けているので分かっているでしょう。
 これはメモリー復帰前のマスターにも適用される条項です」

凛然と語るその姿は気品に満ち溢れており、その青い双眸には一切の迷いがない。
銀の飾りに収められた金色の髪、輝く甲冑とたなびく藍色。
何よりその手にあるものが異様だった。
それは旗だった。大きな大きな、背丈ほどもある旗を聖女は堂々と握りしめている。

「アサシン、ハサン・サッバーハ。今すぐに攻撃を止めなさい」

その警告には差し迫ったものがあった。
最後通告。聖女が決して悪を告発する際の、有無を言わせぬ戒めがあった。
それを前にして、幽霊は僅かにたじろいだようだ。トドメを指さんとしていた刃はぴたりと止まり、幽霊は聖女を見た。

対峙する二騎のサ雎ァ縺ト。
聖女と幽霊。それはまるで生と死を象徴しているかのようであった。
一対の狭間で、彼は必死に意識を繋ぐ。

――ああ思い出してきた。

――ここで僕がやるべきこと、やりたかったことは。

つう、と右腕に痛みが走った。
それまでのぞっとするほど冷たい刃の痛みとは違う、熱く煮えたぎる力を感じさせる痛み……!
強引に痛みを振り払い、彼は右手を掲げた。
そこには三画の光が灯っていた。見覚えのない奇妙な紋章。しかしそれが力であり印であり、何よりこの場にいる証明であることを彼はもう思い出していた。

「令呪……! いままさに“マスター”としての目覚めが始まっているのですか」

聖女が僅かに驚きを滲ませ、動きを止める。
その瞬間を見計らってのことだろう、幽霊の黒衣が静かに待った。
刃がきらめく。白の髑髏が目覚めつつある彼へ猛然と迫る。


「令呪を以て命じます――止まりなさい、アサシン」

が、それを聖女が制した。彼女がその腕に灯した光をかかげると途端に幽霊は動きを止め、ぬぅ、と唸り声をあげた。

「何故止める、ルーラー! その男はもはや一般NPCなどではない。この聖杯戦争の参加者たるマスターだぞ!」
「その判断は“裁定者”のサーヴァントである私が下します。
 完全に記憶が覚醒しない間、彼はNPCであり保護対象になります。そして――」

不平を叫ぶ幽霊に対し、聖女はそこで一度言葉を切る。
一瞬の間が空く。その間に彼女は持ち合わせた溢れんばかりの容赦をすっぽりと置いてきたかのように、

「――アサシン。再三に渡る警告の無視した貴方は処罰の対象になります。
 ステータス低下、令呪の剥奪等のペナルティを課します。貴方のマスターに伝えてください」

そう突き離すように告げた。
その言葉に幽霊は一瞬動きを止める。だが、一瞬だった。幽霊は何かに突き動かされるように再び地を蹴った。
その標的は地に伏せる彼ではなく、聖女。

「【空想電――」

聖女の下へと飛び込んだ幽霊はその左腕を解放せんとする。
空間がぐにゃりと歪み、そこから秘められた神秘が溢れ出る。そして聖女の命を奪わんと異形の腕が迫る。

「愚かな」

しかし、幽霊の神秘が届く前に、聖女は告げていた。

「令呪を以て命じます――アサシン、自害しなさい」

と。
聖女の掲げる光が迸ったとき、事は全て終わっていた。
幽霊は己の胸を自ら突き、末期の言葉一つも漏らすことなく静かに倒れた。

そうして再び森は静かになった。幽霊の身体は光に包まれ、その存在感を薄めていき、最後には跡形もなく消え去っていた。
騒いでいた木々も、耳障りなほどうるさかった風も、幽霊のように何時の間にか過ぎ去っていた。
月はたださんさんと輝いていた。そびえ立つ古屋敷の前で倒れ伏したまま、彼は手に届きそうなほど大きな月浮かぶ夜空を眺めた。

――ああ、月が綺麗な夜だ。

そう思った時、またあの声が聞こえた。

「終わりましたか、ルーラー」

月と同じ色をした、凍てつくほど美しい声が。
揺れる銀の髪、人形のように美しい肌、映すものの罪を表すかのような澄んだ瞳。

カレン・オルテンシア。
闇の中より歩いてきたのは、会ったばかりのあの少女だった。
今度は法衣服ではなく奇妙なほど扇情的な漆黒の衣装を身に纏っている。
また、一枚の長い布が彼女を守るようにその身に絡んでいる。
紅い紅い、布だった。

「はい。結果としてアサシンを脱落させることになりましたが、まずかったですか?」
「いえ問題ありません。あれほどの警告を無視した以上、当然の処置です。
 最後の攻撃はマスターの令呪でしょうね。あのアサシンも愚かなマスターを持ってしまったものです。
 もっとも、そのマスターも今頃解体が始まっているでしょうが」

淡々と語るカレンらの声を、彼は現実味の薄い、どこか遠くのことのように聞いていた。
が、しかしもはや彼はそれを無視することができない。先ほどまでは全く意味の分からなかった言葉が、今や自分の身に迫った情報として頭に入ってくるからだった。

「……それで、彼ですが」

聖女――ルーラーと呼ばれていた少女が倒れ伏す彼を一瞥した。
その視線には傷つく者に手を差し伸べる慈しみが感じられたが、同時に聖女として確かな規範を重んじているような色があった。

「“マスター”として目覚めているようですね。令呪が刻まれ、記憶も取戻しつつある」

カレンが平坦な口調で言った。ルーラーのそれと違い、非常に事務的な響きだった。

「で、あなたはもう今の状況が分かるでしょう?」

頭上から問い掛けが降ってくる。
カレンのの声色は先ほどの、何も知らなかった頃に会ったときと何ら変ってはいない。

「……聖hィ戦争」

彼は声を絞り出した。その単語をひねり出すだけで、じん、と頭が痛んだ。
消された筈の、空白に上書きされた筈の言葉を思い出す。そんな矛盾が痛みを読んでいるのかもしれない。

「まだ記憶の封印が完全には解けていないようですね」

その様子を見てカレンがふぅと息を吐いた。

「まぁこうして覚醒の瞬間に居合わせたのも縁です。少し手伝ってあげましょう。
 貴方が持っている筈の記憶をたどる形で状況を説明していけば、おのずと記憶の回復もできるでしょうし。
 では、説明いたしましょう。この聖杯戦争――月を望む聖杯戦争について」

セイハイ、センソウ。
聖杯戦争。
その単語がようやく意識に浮かび上がってきた。
そう、それがずっと思い出せなかった。
届かなかった。

「聖杯戦争とは万物の願いをかなえる“聖杯”を奪い合う争い。
 魔術師たちが己が望みを物にすべく七騎の“サーヴァント”を統べ競いあう。
 あり大抵に言ってしまえば、万能の願望機を求め殺し合う。
 そんなシステムのことです」

聖杯、サーヴァント、願望機……その単語が聞こえる度、脳みそをかきまぜられているような痛みが走る。
同時に、ああ、あの幽霊はサーヴァントだったんだな、と納得もしていた。

「サーヴァントとは聖杯がこれまでに観測し記録してきた膨大なデータから再現される、過去の英霊たち。
 人類が生み出してきた情報の結晶。それを七つのクラスに当てはめる形で再現する。
 セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー……彼らサーヴァントを参加者たるマスターは令呪によって従えるのです。
 このシステムは当初、それぞれ一騎づつ選出された、七騎のサーヴァントで行われていました」

ですがこの“月を望む聖杯戦争”は違います。カレンはそう淡々と告げた。

「この“月を望む聖杯戦争”で呼ばれるサーヴァントはその何倍にも多い。
 二十……いえ三十に近いサーヴァントが呼ばれることでしょう。
 それはひとえにあの月に依るもの。
 地球をその誕生から観察し続け、地球上のあらゆる生物、あらゆる生態、あらゆる歴史、そして魂さえも記録してきた――月の聖杯。
 ある者はそれをこう呼びました。
 量子コンピュータが魔術的概念により実現されている自動書記装置。
“ムーンセル・オートマトン”と」

そして、とカレンは月を背に言った。

「ここは月を手にしようとする者が集う箱庭。月に停泊せし放浪者。存在しない筈の二番目の月。その観測のされ方は様々です。
 月は観測者次第でいかようにも姿を変え得る。貴方方がここをムーンセルの付随物としてみたように、ある者はそれを方舟<アーク・セル>として見た。
 しかし何にせよ意味は同じです。それは……月に到る階段<スパイラル・ラダー>」

月の聖杯、ムーンセル、方舟……理解が追いつかない。何しろ思い出しながら、だ。
それでも、彼は一つ分かっていた。
そうか、自分はいまあの月を目指しているのか。妖しくも美しいあの月に、手を伸ばしている。

「ここはムーンセルが観測した過去。月より降りそそぐ情報を受け船が造り出したユメ。
 例えばこの屋敷。ここはかつて一人の魔法と使いと、一人の魔女、そして一人の孤独な青年が住んでいました。地名自体は白犬塚というそうです。
 少なくともそんな可能性を持った並行世界があり、月は観測した。それを再現した場所。
 ここでは月が識る、土地や歴史、木々、水、空、そして人間が再現されている。
 どこでもあって、どこでもない、過去であり、未来であり、現在である」

そう、それが今回の聖杯戦争の舞台。
彼はようやく思いだしてきた。自分が何者であったかを。

「貴方がたは様々な方法でこの方舟にアクセスしてきました。
 量子ハッカー、魔術師<ウィザード>として月を見つけた者、古来より伝わる魔術師<メイガス>として月に到った者、全く異なる並行世界の力より月を探し当てた者、はたまた月のきまぐれか何の能力もないのに呼びこまれた者……その手段は様々です。
 鍵は様々なカタチで観測されました。それはある時はデータ上に浮かび上がるコードとして、ある時は聖遺物の欠片として現れ“ゴフェルの木片”として。
 ただそれを手にし。参加者としてマスターとなった以上、何かしら願いを持っているはずです。
 月を望み、月に到る。万能の願望機を願った貴方がたには先ほど告げたように殺し合ってもらいます。
 ――最後の一人となるまで」

殺し合う。その言葉もまた、カレンは淡々と言った。

「そして、私たちはその監督役。聖杯戦争が滞りなく行われるかを裁定する者。
 私とルーラーは参加者ではなく、運営に携わるものということです」

よろしくお願いします。
言ってカレンはぺこりと頭を下げた。
隣りに佇むルーラーも軽く礼をした。彼も挨拶をしようとしたが、それよりも早くカレンが口を開いていた。


「監督役として、助けを請われれば出来る範囲で応えましょう。円滑かつ平等に活動が行える取り計らいましょう。
 ですが場合によっては警告と、そして制裁を下します。先ほどのアサシンのように」

今しがたルーラーにより脱落させられた幽霊――アサシンの姿が脳裏を過る。
ルールを破れば、ああなる。彼女らにはそうする力がある。

「もっとも、余程のことがない限り私たちは手を出しませんが。現状、一般NPCへの度を過ぎた無差別殺戮は禁じられていますが、それ以外で大きく動くことはないでしょう。
 NPCの殺人も、よほどひどくない限りは何も言いません。サーヴァントの魔力源として魂喰いを行うこと自体は何らありません。
 その他追加ルールがあれば随時お伝えします。ただしルーラーにはその権現、各サーヴァントへ二回まで使用可能な令呪があることを覚えていてください」

令呪。
その単語を聞いた彼は右手の甲に刻まれた三画の紋様を眺めた。
先ほどはぼんやりとしていた光も、今やくっきりと確かな輪郭を持ってその手に定着していた。

「令呪とは本来マスターとしての証、たった三回だけのサーヴァントへの絶対命令権。
 それがあるからこそ、貴方たちはマスターでいられる。
 逆にいえば、失われた時点でマスターとしての資格を失います。令呪なくともサーヴァントを従えることができるのなら別ですが、そうでないのならば強制的にSE.RA.PHより消去<デリート>されます。
 それを手に入れるまでが“予選”でした」

“予選”
思わず彼は聞き返していた。

「“予選”です。全てのマスターはSE.RA.PHにアクセスした際、そのメモリーデータを封印された状態でアバターが生成されます。
 聖杯戦争のことは勿論、魔術のことも、自分が秘めた願いのことも、全て忘れた状態でこの街で過ごしてもらいます。
 その状態に違和感を抱き、記憶の封印を解き、自らマスターであることを思いだす。そのとき初めて令呪が浮かび上がるのです」

そうか、だから忘れていたのか。
自分自身のことを、こうまでも。
彼は不思議と腑に落ちた心地になった。

「それが“予選”。中には自分がマスターであったことを思い出すことすらできず、NPCとして埋もれていく者もいます。
 そんな中、貴方は思い出しました。マスターとして、月に認められたのです」

おめでとうございます。カレンは平坦な口調で祝福の言葉を漏らした。
彼はそれを呆然と受け止める。
まずカレンの顔を見つめ、次にくっきりと浮かぶ令呪を見つめ、最後に蘇りつつある自身の願いを見つめた。

――ああそうか、僕は……月を望んでいたんだな。

「記憶封印の解除と同時に、月よりサーヴァントが宛がわれます。
 日常の違和感に気付き、心に刻んだ願いを思い出し、サーヴァントと契約する。
 それが参加者に与えられた最初の試練」

胸が昂揚するのが分かった。自分はいま、喜んでいる。
最初の試練を、辛くも自分は突破したのだ。

「サーヴァントを手に入れれば、あとは残りのマスターを全て倒すだけです。
 それだけで、貴方は月に到れる」

そんなこと簡単だろう、と彼は奇妙な自信に支配された。
先ほどの状況を突破できたのだから、あとはもう大丈夫、と。
根拠もなく思っていた。

カレンは顔色一つ変えず口を開く。

「ですが」

そこで、それまでカレンの隣で無言を保っていたルーラーが、どういう訳か顔を背けた。

「貴方にもうその資格はありません」

――え?

「だって、貴方もう死んでいるもの」

……その口調は相変らず平坦で、事務的で、淡々としていて、それでいで優しさやいたわりといったものを感じさせた。

彼はそこでようやく己の胸を窺った。
アサシンに一突きされた胸からは血がだくだくと流れ、心臓部はぽっかりと穴が開いていた。
身体<アバター>は既に解体が始まっている。情報が剥がれ落ち傷口は泥のように黒ずんでいた。

「あの時点で一般NPCだった貴方は保護対象でありましたが、だからといってその際に受けたダメージの回復まではできません。
 貴方が助かる見込みはもうないでしょうね。目覚めるのが、あと少しだけ遅かったですね。
 帰ろうなんて、思っているから。帰る場所もないのに」


ああ、そうか。
そういえば、さっき
自分はどこに帰ろうとしていたのだろうか?

そもそも、僕の名前は。

「貴方の脱落は傷を見た瞬間分かっていました。
 それでもわざわざ丁寧に説明したのは、半分マスターとして覚醒していた貴方のデータが、変な形で残らないようにするため。
 死んだことにすら気づかず、サイバーゴーストになんてなられても監督役として困るもの。
 だから、納得して死んでもらいます」

カレンはそう言って目を閉じた。
それはまるで冥福を祈るよう――

せめて名前を教えて欲しい。
僕の名前を、僕が何というカタチをしていたかを。そしてできることなら呼んで欲しい。
でも、無理だろうな。

そう思ったからこそ彼はただ陶然と月を見ていた。
綺麗な綺麗な、月。
空に浮かぶ月は依然変わらず手が届きそうで――

「では、聖杯戦争を始めます」

――絶対に届きはしない。








そうして、月海原学園の一学生を演じていた筈の彼は、消滅した。
彼がいかな願いを持った、どんな魔術師であったのか、カレンは知らない。
ただ、もう彼にまつわる全ての情報が解体されてしまったことは確かだった。

それを見届けたカレンは一言呟いた。

「では、聖杯戦争を始めます」

と。

「始まるん……でしょうか」

その呟きをルーラーはどこか自信なさげに反芻した。

「まだ、あとから目覚める人も居るんじゃないですか。
 さっきのあの人のように」
「かもしれませんね。でも、恐らくないでしょうね。
 記憶の封印を解けるとしたら、大体今ぐらいがリミットでしょう」

封印された記憶と、長く付き合えば付き合うほど元の記憶は埋もれていく。
だから、この辺りが限界だとカレンは当たりをつける。

恐らく各マスターが目覚めた時間にそれほど差はない。あって数時間程度の差だろう。
だから実質聖杯戦争が動き出すのは今ぐらいからだ。

「一体、どんなサーヴァントが呼ばれているのでしょうね」

ルーラーがぽつりと漏らした。
これから始まるであろう戦いに、思いを馳せるように。

カレンは視線を上げた。
その視線の先には、この丘から見下ろした街の光がある。
錆びれたマンションがある。昔ながらの商店街がある。できたばかりのレジャープールがある。奇妙な噂の絶えない名家の屋敷がある。人を導く教会がある。
月が用意した此度の聖杯戦争の舞台。
今頃街では多くのマスターがサーヴァントと出会っている頃だろう。

いかなる英霊、あるいは反英霊がこの地に呼ばれたのか。
それはまだ分からなかった。

――ただひとつ分かることがあるとすれば、

カレンは無言で空を見上げた。
月が、ある。
美しく輝く、月が。
こんなにも近しくあの光を拝めるのは、きっとここだけだろう。

――みなあの月を望んでいる、ということでしょう。


【アサシン(ハサン・サッバーハ)@Fate/hollow ataraxia 脱落】
【プロローグの青年 @Fate/EXTRA 脱落】

【二次二次聖杯戦争 開幕】


  • 主催
【カレン・オルテンシア@Fate/hollow ataraxia】
【ルーラー(ジャンヌ・ダルク)@Fate/Apocrypha】




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参戦 ルーラー(ジャンヌ・ダルク 029:初陣
参戦 カレン・オルテンシア 050:主よ、我らを憐れみ給うな