ここでは「教育上の問題」は論じない。「算数・数学での正しい理解のしかた」についてのみ書く。

 

1. 掛け算順序のはなし(その1)

納品書でも伝票でもレシートでもなんでもよいが,それが1枚あって,その全体を通して

 単価 × 個数

という形式で計算されていたとする。その中に

 個数 × 単価

で計算された式が紛れ込んでいたら,当然赤で修正する

それだけの話。

このように,社会生活においても「掛け算の順序」が意識されることはふつうにある。

世の中でも算数でも(現代数学でも!)掛け算の順序を意識する(意識することが自然な)場面があるということ。

注意1)これは現代数学でもふつうにやっていること!その上で「数学の自由性」がある。順序の強制ではもちろんないし,順序を考えることの強制でもなんでもない。

従って

「掛け算に順序がある(順序を考えることがある)という主張は数学的にまちがい」

「掛け算に順序を考えるのは数学的ナンセンス」

というネットの一部でシツコク繰り返されている「シュプレヒコール」は,それこそがトンデモである。その大声に思考停止させられてうっかり騙されないように要注意だ。

ただしもちろん「掛け算の順序は場面ごとに(つまり伝票ごとに)自由」である。

それでも注意しなければいけないのは,一旦「順序を決めたら」その表記法でハナシをしている間は3×5と5×3は意味が異なるということ。どちらでもよいというのは非論理的である。(実際そんなコトは,上で書いたように,伝票やレシートの例を見れば常識的に分かるハズ)。

小学校の教科書ではその導入時に,掛け算の式を

 一つ分の数 × いくつ分=全体の数

と書く,と説明されている。その説明を引き摺って話している間は

 6×3=6+6+6

なのであって,左辺は3+3+3+3+3+3を意味しない。だからこそ

 6×3=3×6

という交換法則に意味がある。(あたりまえのはなし。そうでなかったら,交換法則は

 3×6=3×6

という自明な式(X=X)と何も変わらない。つまり法則でも何でもない)。

注意2)交換法則が成り立つことから「掛け算ではそもそも順序など考える必要はまったくない」「順序を考えるのは数学的にマチガイ!」と自分都合の結論(数学的には正しくない主張)に飛びつく連中が居るようだが,自分都合の範囲(主にその思考力の都合で定まる範囲)で納得するために不都合な真実(理解できないこと)をマチガイと断ずるのは思考停止した阿呆連中である。

注意2への注1)(重要な注意)交換法則が成り立っても順序を考えることと矛盾などしない。むしろ「交換法則が成り立つ」というためには「順序を考えなければならない」(上で説明した)。

注2)この連中は数学的にまちがっているだけだけど,まちがってしまうのは阿呆でもなんでもない。そのマチガイに固執して「他人の主張を理解しようとも,それにまともに(論理的に)相対しようともせず」思考停止して他人の主張を攻撃し続けるだけの状態にとどまっているコトを阿呆という。

注意3)小学校の教科書において

 一つ分の数 × いくつ分=全体の数

という掛け算の順序が「世界標準であるかのように」決められているなら,その記述はトンデモと言われても仕方ないが,そんなことにはなっていない

注意4)どう教えられているかということ(教え方の問題)は別問題。

注意5)「一つ分の数 × いくつ分=全体の数」という順序を何処まで標準的なものとして守らせるかというコトもまったくの別問題。5年生や6年生の教科書やドリルで掛け算順序を守っていない記述がある(してやったり!笑)という揚げ足をとり,それをもってして「掛け算で順序を考える」のは合理的でない(?笑)という論理的脈絡を欠いた感情的主張をする連中がいるが自分都合の揚げ足取りの下らん指摘だ。

注意6)学校のテストやドリルで正しい掛け算の順序が「一通りに」決められそれが強制されているというコトも別問題。そもそも「饅頭3個5皿の饅頭の総数を掛け算の式で書きなさい」というのは考え方を問うている問題ではない。教科書の内容が理解として定着しているか否かを問うている。そういう問題について「順序を強制している!」などと反発するほどのことはなかろう。何れにしろ「別問題」である。

注意4〜6への注意1)注意2で言及した連中の主張はそこから「学校教育が(算数として)まちがったことを教えている!」「まちがった考え方を強制している」という阿呆な主張に発展するようである。そして注意4〜6で述べた問題を合わせて「それを根拠に」再び数学上の問題(掛け算順序)を論じ出すので始末に負えない。混乱もいい所だ。こういう混乱した議論しか出来ぬ連中の言う事はマトモにとらないほうがよい。時間の無駄である。

注意4〜6への注意2)これらが別問題であることが(おそらく)分かっていて,わざと混乱させて論じる狡猾な連中もツイッター上に跋扈している。こういう連中にはもちろん要注意。自分の主張を通すために,都合の悪い事実は見なかったことにして,シュプレヒコールを繰り返しているだけの攻撃的な活動家連中である。(実際,彼等のツイートは同じことの繰り返しである)。

 

 

 

2. 交換法則のはなし

よく3×5と5×3が異なる意味と考えたら交換法則がまちがっているということではないか?と勘違いするひとが居るが,3×5と5×3が異なる意味と考えるからこそ交換法則に意味がある。

 3×5=3+3+3+3+3

 5×3=5+5+5

と定義する。(小学校の掛け算の定義は「現在は」こうなっていない,というのは無関係。また説明が変わっただけで斯ういう考えを維持していることに変わりない)。定義上3×5と5×3は異なる(3×5は饅頭3ケ入りの袋が5袋あるときの饅頭の総数。5×3は饅頭5ケ入りの袋が3袋あるときの饅頭の総数)。このとき,何方の饅頭の総数も等しいというのが,交換法則

 3×5=5×3

の意味。定義にもどって考えるとハッキリする。

 3+3+3+3+3=5+5+5

ということ。左辺と右辺はちがう式だけど等しい。

大学の先生も含めて(阪大(物理)K東大(進化学)Sなど)分かっておらんひとが多いようだ。小学算数からやり直せ。笑。少なくとも分かっておらんのにエラソーに発言してはいかん。

 

 

 

3. 21÷7のはなし

21÷7の答えを求めるには九九の何の段を使えばよいですか?

(こたえ)7の段

当たり前。

注意)「答えを求めるにはどうすればよいか」というのは「答えを求めるための合理的な方法」を問うている。従って,割り切れない場合もその方法で「割り切れない」ということが明確にならなければいけない。そんなことは問題文に書いてないというのは典型的なクソなヘリクツ。

3の段と答えてバツになった答案を見て「ナンセンスな採点」などと何処ぞから来たのか判らぬ非論理的個人的感想をもってして「格好良いつもりで」断じている連中(ツイッターで断ずる俺は格好良いと些か酩酊気味の連中)については,すでにその発言をもってして,彼等の他の発言にも眉に唾付けよぉく(その根拠がどこにあるのか)注意したほうがよいと考えてよかろう。

http://twitter.com/7takeuchi7/status/502100661081608192

更にはあえて「3の段」も正しいという屁理屈で掛け算順序にはなしを結びつける悪意ある(法律用語)連中もまたツイッターに跋扈しているようだ。彼奴等は間違っている以前に「読み手をおかしな方向に誘導しよう」ちゅう悪意ある連中であるから酩酊気味の連中以上に要注意である。まともに相手をせんほうがよろしい。

 

 

 

 

 

 

4. 掛け算順序のはなし(その2)

問題:饅頭が3個づつのった皿が5枚あります。饅頭のぜんぶの数をあらわす式を「一つ分の数×いくつ分」の形で掛け算の式で書きましょう。

という問題があったら,その答えは

 答え)3×5

これ以外に有り得ない。

5×3でも正解という主張は(その理由の如何を問わず)マチガイ。交換法則が成り立って

 3×5=5×3

だから,5×3でも正解という主張はトンデモ。(屁理屈にもなっていない)。

 

注意1)もちろん所謂「トランプ配り」で数えて一つ分の数(一巡目に配った数)=5,いくつ分(巡回した回数)=3と考えれば,正しい答えは5×3で3×5は誤答になる。問題文が

問題:饅頭が3個づつのった皿が5枚あります。饅頭のぜんぶの数をあらわす式を,一皿の饅頭の個数を一固まりとして考えて「一つ分の数×いくつ分」の形で掛け算の式で書きましょう。

となっていたら紛れはない。答えは3×5となって5×3は誤答になる。

 

注意2)「一つ分の数×いくつ分の形」で書くこと自体がナンセンス,という反論について。掛け算順序否定派の活動家が言いそうなタワゴトである。この反論だか主張だかナンダカ判らぬ代物自体が数学的にも論理的にも考慮に値いしない個人的都合の表明に過ぎぬことは,どういう意味でナンセンスなのかを問うてみればよい。論理的にまたは数学的にナンセンスであれば不合理あるいは無駄な論理的ループが生ずるはずであるが,そんなことは一切ない。連中の主張にとって「不都合」が生じているだけである。それをナンセンスというのだから彼等の主張は理論家のそれではない。活動家のシュプレヒコールに過ぎない。

 

注意3)問題文を正確に書くべきだという向きもおられよう。あまり厳密居士であっても窮屈であろうというのが当ページ管理人の意見。これは意見であって論理的にそうあるべしという主張ではない。

 
注意4)上の問題の答えがどうあるべきかと「小学校の算数の考え方」の是非とはまったく無関係。インデペンデントである。上のような問題において「交換法則が成り立って

 3×5=5×3

だから,5×3でも正解」という主張は算数・数学以前に論理的にトンデモであって,そういうロジカルトンデモ(ロジトン)に基づいて「小学校での算数の考え方がおかしい」と言ってもはじまらない。念のため付け加えると「

 3×5=5×3

だから,5×3でも正解」という主張が算数・数学以前に論理的にもトンチンカンなのは「交換法則を証明する前であろうが,証明した後であろうが」そういう事情とも無関係。証明したあとでも勿論「5×3はまちがい」。掛け算順序否定派の連中の中には

「交換法則を習っていようが習っていなかろうが3×5=5×3は正しい。だから5×3も3×5と同様にまったく同じレベルで正しい」

と主張する連中も居るが考慮に値しない

このトンデモ系の主張に興味のある物好きな方は,教育的迷演説「掛け算の順序問題について」 http://www63.atwiki.jp/midnightcorner/pages/11.html を参照されたい(オリジナル記事をこのウィキに再掲した)。なお此れを書いた人は科学者としては合理的な考え方をする悪意のない方と一応お見受けしている。したがってこの迷演説にも悪意は感じず,純粋さ故の爽やかな内容となっているととれぬこともない(他の活動家連中とは大ちがい)。ただしその内容は数学的にはトンデモである。それ以外に主張したいことが氏にあったのであれば,意溢れコトバ足りずという所かもしれぬ。

 

 

 

5. 掛け算順序のはなし(その3)

掛け算順序のはなし(その1)(その2)で掛け算に順序を考えることが自然な場合が(数学においても)ふつうにあると書いた。まとめも兼ねていくつか補足的な注意をする。

この節の内容は基本的で当たり前のことだが,数学的な考え方に慣れた上級者向け。

以下この節を読むのに面倒を感じたら,注意9)と注意10)だけに目を通しておけばよい。

トンデモに騙されないための予防にはそれだけ心得ておけばよいだろう。)

注意1)復習。文字式を用いて説明し直す。Qを単位量として(Q=1としてもよい)

 3Q×5=3Q3Q3Q3Q3Q

としたとき,原理的には(何の計算もしなければ)

 5×3=

となる。とくにQ=1とすると

 3×5=

 5×3=

を得る。×3=3は(何の計算もしなければ)得ることを能わずだ。

注意2)一方で3×5=とせずに,原理として

 3×5=5

が得られるようにすることもできる。Qを単位量として

 5×3Q=3Q3Q3Q3Q3Q

と約束すると(欧米流の掛け算の定義)このとき

 3×5Q=5Q5Q5Q

となってQ=1とすると3×5=55を得る。

注意3)注意1と注意2で示した2つの掛け算は同時に扱う事が出来る。つまり

 3Q×5=3Q3Q3Q3Q3Q

かつ

 5×3Q=3Q3Q3Q3Q3Q

としても何の問題もない。このとき

 3Q×5=5×3Q

となる。

注意4)しかしこの式でQ=1として交換法則が説明できたと考えるのはマチガイ。

ナゼナラ左辺と右辺で(偶々同じ記号で表わした)× の意味(定義)が異なるからである。 

交換法則は

 3Q×5=5×3

を証明しなければ説明できない。

注意5)では

 3×5

と書いた場合

 3×5=(3Q×5でQ=1としたもの)=33 

 3×5=(3×5QでQ=1としたもの)=5+5

のどちらであろうか?これは判定できない。その理由は深いところにはない。単に2つの異なる掛け算を同じ記号 × で表わしたことに由来している。それだけのこと。それだけのことであるが,これが多くの一般大衆(大学人含む)の誤解のもとになっている。

注意5の追記)「掛算順序否定派」の連中(活動家含む)もまた「式の意味を判断することはできない」ということを下品この上ない仕方で主張しているが,その主張自体はマチガッテいない。上(注意5)に書いた由来がわかっていないのか?不都合なのか?それはよくわからぬ。いずれにしろ彼等は上に書いた理由までは説明しない(できない)。同じシュプレヒコールの暴力的繰り返しを壊れたテープレコーダの如く行なうのみである。

注意6)判定できないからといって

 3×5=33 

でもあるし

 3×5=+5 

でもあってどちらの意味も持っている,と考えるのはマチガイ。

注意6の追記)トーゼン「掛算順序否定派」の連中はこういう当たり前のことが分かっていない。

注意7)判定できないことと両方の解釈が同時に成り立つというのとはチガウ。

どちらの解釈もあり得るということだけ。

一方の解釈を採用したら,その文脈では,もう一方の解釈は成立しない。

注意7の追記)トーゼン「掛算順序否定派」の連中はこれまた分かっていない。

注意8)それでも

 3=5+5

だからいいじゃあないの〜というのはカンチガイで,この等号こそが交換法則

 3×55×3

を表わしている。つまり自明でない法則を表現している。交換法則をこの形に書くということは,3×5と5×3の意味を固定しなければ出来ない相談だ。

注意9)(注意5〜8のまとめ)3×5という式だけからは,それが

 3×5=3

の意味か

 3×5=+5 

の意味かは判定できない。判定できないからと言って「両方の意味」を同時に表わしているワケではない。一つの文脈で表わす意味は「原則的に」一方だけである。

注意10)この注意9が理解できていない連中が所謂「掛け算順序否定派」には大勢居る。数学的内容を理解できずに「数学的内容についても自己都合を持ち込み」シュプレヒコールを繰り返しているバカな連中である故,人畜有害な連中である。健常な思考の持ち主でも大音量のシュプレヒコールの中では思考停止になりがちなものだ。声高なシュプレヒコールには気をつけるに越した事はない。

注)バカな連中とは「その行動」について言っている。執拗なシュプレヒコールを繰り返しているホドでもないが,数学的内容を理解せずに自分都合の解釈で「マチガイだ!」「ナンセンスだ!」と吠えて聞く耳持たず(思考停止)のその連中には,科学の分野に何らかの形で関わっている著名人や大学人(数学専攻ではない)東大教授含む)も含まれる。うっかり真に受けぬよう要注意である。

 

 

 

 

6. 掛け算と単位のはなし

読者から質問をいただいたので回答する。饅頭3個5皿の総数を

 3×5

とするときの3や5に単位はないのか,あれば何かという質問だ。

以下のリクツはあまり大事なハナシでもないので「算数のキホンを理解するには」読まなくても問題ない。

まづ算数を含む数学で式を書くとき,ふつう単位は考えないが,式の中の量に単位を考えてもオカシナことにはならないようになっている。単位を考えないことがマチガイではないし(単位を正しく)考えてもマチガイではない。どちらでも同じ結果になる。

では饅頭3個5皿の総数を表わす式

 3×5=3+3+3+3+3

で3や5の単位を正しく考えると何か?

結論はこの節の一番下に書く。以下其処迄の説明を読むのが面倒なら跳ばしてよい。

この等式の左辺の5は右辺の3の個数を表わすが,現代数学ではこの5は単位無し(抽象的な整数)とする。その上で3の単位は左辺でも右辺でも同じものを(加法的量の単位であれば)自由に考えてよい。だからこの掛け算の式3×5によって,饅頭に限らず

 3Lの水の入るバケツ5杯で運べる水の全体量

も表はせることになる。(加法的量の単位を考えるというのは数学のコトバでいうと加群の生成元を指定することに相当する。後の5は整数環の元。何かしらの加群の元ではない)。

注意)こういうと掛け算記号の前後の数で意味がちがうなら交換法則は成り立たないのか?と攻撃する阿呆が出て来るが(当たり前の事だが)そうではない。小学校でしっかり証明付きで習うように

 3(個)×5=5(個)×3

となる。この等号は掛け算記号の前後の数を交換してもまったく同じことだから(←意味不明なコトバだが阿呆連中の用語を借用した)成立するのではない。単位をつけてみれば判るようにこれは自明でない結果であって,証明すべきこと(小学校ではじめて出て来る数学的考え方)。この非自明な公式を交換法則という。

結論:3の単位は(個)。5は単位ナシ(格好よくいうと無次元)。

注)3の単位は(個/皿)5の単位は(皿)としたがるトーシロが多いようだがそうではない。それについては次の節で説明する。

 

 

 

7. 掛け算と比例式のはなし

饅頭3個5皿の饅頭の総数を求めるのにもう一つ考え方がある饅頭の数が皿の枚数に比例すると考えて求めるものだ。そうすると

 3×5=3+3+3+3+3

でも

 5×3=3+3+3+3+3

でもどちらでもいいことが明らか。というギロンがあるが,それもトンデモであることをここに書く。この節は敢えて読まなくてもよい。(トンデモに付き合うとそれだけで自分も無駄に阿呆になる故に)。注)吾輩は仕方なく付き合ってこれを書いている。

饅頭の数が皿の枚数に比例すると考えると,饅頭3個5皿の饅頭の総数は(比例式 y=3x で x を皿の枚数として)3個/皿)× 5(皿)として求まる。ここの掛け算記号 × は

 3×5=3+3+3+3+3

の意味ではない!比例関係という凾数関係の一種を表はす記号に過ぎない。であるからして3(個/皿)× 5(皿)という表記自体に「掛け算の意味」は今の所ない。同じ記号を仮に用いているに過ぎぬ。けれども比例の性質を用いれば

 3(個/皿)5(皿)=3(個)×5

が示される。ちがいが見易いように「比例式における」掛け算記号 × をと書き直した。敢えて考え方を式で書くと

 3(個/5(皿)={3(個/皿)1(皿)×5=3(個)×5

となる。(個/皿)5(皿)を5(皿)(個/皿)と書いたとて

 5(皿)(個/皿)1(皿)(個/皿)×5=3(個)×5

となって同じ事である。3×5(ふつうの掛け算)を3×5=3+3+3+3+3としている限り右辺が5×3(個)になることはない。巷に雨の降る如く

「饅頭3個5皿の饅頭の総数を求める式

 3×5または5×3

(個/皿)×5(皿)または5(皿)×(個/皿)と考えるのが正しい。どっちも同じ内容でだから3×5も5×3も同じこと」

という類いの意味不明なギロンをよく見かけるが(アホのギロンをまとめるとこちらまでアホになった気分だが)この意味不明なギロンがまったく無意味な言説であることは上の説明から明きらかだ。比例関係を表わす式を勝手に2つ与えてそれが同じ量を表わすからその2つの式のどちらでも同じ,と言うまったく無意味な言説に過ぎない。

 3×5=5×3

という交換法則の説明にもなっていない(数学的内容はゼロ)のである。阿呆草。

 

 

 

8. 長方形の面積のはなし

  長方形の面積=たての長さ×よこの長さ

こういう式には,交換法則を使って

  =よこの長さ×たての長さ

としてもよいことが(暗に)含まれている。それ故,長方形の面積を「たて×よこ」で計算しなければならぬ理由はない。長方形の面積=たて×よこ=よこ×たてであってどちらを(はじめから)用いてもよい。これは

  饅頭◯個5皿の饅頭のぜんぶの数=一皿の饅頭の個数×5 

とははなし(考え方)が異なる。

注意)饅頭も長方形に並べて数えたらどうかという御仁もいるやもしれぬが

  饅頭の個数=たてに並べた個数×よこに並べた個数

とはならない。饅頭を長方形に並べたとてそのぜんぶの数を表わす式は

  饅頭の個数=たてに並べた個数×いくつ分(列の数)

であって長方形の面積の式とはやはりちがう。アタマの中で長方形に並べていてもそうである。これが

  =よこに並べた個数×いくつ分(行の数)

となるというのは交換法則の証明に他ならない。それは

  饅頭◯個△皿の饅頭のぜんぶの数=一皿の饅頭の個数×△

からすぐわかる法則ではない。わかったあとは自由に用いてもよいが「はじめから

  一皿の饅頭の個数×△ でも △×一皿の饅頭の個数

のどちらも同じ」ということではない。  

 

 

 

9. どういう式なら文句なく正解か? 

問題:饅頭が3個づつのった皿が5枚あります。饅頭のぜんぶの数をあらわす式を「一つ分の数×いくつ分」の形で掛け算の式で書いて計算しなさい。

という問題があったら,その答えは

 3×5=15

交換法則を使うなら

 3×5=5×3=15

ここまでは文句なく正解。満点である。いきなり

 5×3=15

とするのは「交換法則を習っていようが自ら発見して知っていようが」バツである。

注1)これは強制でも何でもない。「数学の自由性」もこのような区別とは関係ない。

注2)数学(現代数学)はこのような区別を適正に行なうことで発展して来た。このような区別をどちらでもいいと蔑ろにするのは文明の発展や人知の深化を拒否する態度に他ならない

 

 

 

10. 式の意味と大学入試のはなし 

式から意味は読み取れるか?

式だけから意味は読み取れない。これは正しい。せやけど括弧付き。(ある程度「どう考えたか」は読み取れる。また読み取れるような式を書くのがリテラシー。大学入試はその前提で採点している)。

(余談)式から意味は読み取れないとか何とかまともなことを言うとった数学の先生も勢い余って(シムラ効果?)ヘンなことを(基本的なピースを組み合わせるのにローカルルールでとか何とか)言い出すことがあるから要注意。まああれはシムラの本の受け売り(+胡麻擂り)だな。笑。大先生の前でも論理的に筋を通す完璧な人間はナカナカ居ないもんだ。(シムラの書いている事は一面的なことに過ぎぬ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

Il y a beaucoup de profs imbeciles de universite... et celles de grandes personnes generales aussi...

 


 

 

最終更新:2017年12月09日 23:06