徒衆を主り、礼義を以って教す。(孔安国)
八政。一曰食、二曰貨、三曰祀、四曰司空、五曰司徒、六曰司寇。七曰賓。八曰師。(『尚書』)

 司徒とは、朝廷職官である。前漢後期より置かれた朝廷の最高官、三公の一人に数えられ、宰相(首相)の職務を、他の二者と三分する。民事を司った。
 三公の制定から後漢初期に掛けては、大司馬大司空に合わせて大司徒と称した。光武帝期の半ばに司徒と改称され、以後その名が定着する。



目次




歴史


前漢

 成帝綏和元年、周制に法り三公の官を置くが、この時は丞相大司馬大司空であり、司徒の名は無かった。
 哀帝元壽元年、改めて三公官の分職を正して、大司馬衛将軍大司馬と為し、丞相を大司徒と為し、御史大夫を大司空と為す。また、司隷校尉を復して司隸と為し、護軍都尉を改めて司寇の職を造り、司直と共に三者の職分を正す。司直は大司徒に、司寇は大司馬に、司隷は大司空に属す。
 王莽も大司空の名を引き継ぐ。

後漢

 世祖光武帝が即位すると、前制を改めず、大司馬、大司徒、大司空をして三公官を定めた。
 また武帝故事に倣い、司直を置いた。司直は大司徒府内に居り、諸州の督録を助けた。
 建武十一年、司直を省いた。
 建武二十七年、「大」を去り司徒とした。
 献帝建安八年十二月、また司直を置くが、司徒に属さず*1、中都官の督を掌り、諸州を領しなかった。
 建安十三年夏六月、三公官を罷じ、丞相、御史大夫を置いた。司直は丞相に属した。



三国

 は三公の制を踏襲し、変わらず司徒を置く。
 は当初丞相制を敷くが、宝鼎三年、司徒、司空の官を置く。丞相も継続して併置される。
 蜀漢は三公を殆ど置かなかったが、ただ一人、劉備の帝位即位時に司徒許靖の記録が残る。




 三公、一人。



職掌




(後漢)
 人民の事を掌る。
 およそ民に孝悌、遜順、謙倹,養生、送死の事を教え、則ちその制を議し、その度を建てる。
 およそ四方の民事を功課し,歳尽きば則ちその殿最(勤務評価)を奏して賞罰を行う。
 およそ郊祀の事には,牲を()、濯を視ることを掌る。大喪には則ち安梓宮を奉じることを掌る。
 およそ国に大疑・大事有れば、太尉と同じい。則ち太尉、司空と通じ而してこれを論ず。国に過ちの事有れば,則ち二公と通じこれを諫争す。



属吏

 詳しくは三公の属吏を参照。

長史

 一人、千石。


掾属

 三十一人(或いは三十人)。


令史及び御属

 三十六人。



属官


太僕

廷尉

大鴻臚

 九卿のうちの三。
 司徒の部署する所と言う*2。しかし、その実際の関係は不詳。


司直

 一人、比二千石。
 職は監せざるもの無し。諸州の督録を助けた。
 光武帝建武十一年に省く。



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関連項目・人物



詳説




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最終更新:2015年01月05日 00:29

*1 杜畿伝に司空司直の記述が有る。当時の司空は献帝を奉戴した曹操である。

*2 『百官志』注『漢官目録』