扶は、助なり。風は、化なり。(張晏)
とは、
前漢中期以降に置かれた地方長官(府知事)に相当する
職官、またその管轄する
郡相当規模の地域である。
長安の所在する
京兆尹の右地(西方)に位置し、
左馮翊と共に首都圏
三輔の一角を担って、特に前漢では一般の
郡太守を越えた地位と職責を有した。史書では
扶風と呼称される事も多い。
漢代には
司隷に属し、魏以降は
雍州に属した。
目次
歴史
故秦官の
主爵中尉を漢が継いで置く。
景帝中六年、更名して
主爵都尉と為す。
武帝太初元年、
主爵都尉を
右扶風と更名し、
右内史の西部を分けて管轄とする。その治所は長安城内に置く。
中興し
洛陽に遷都すると、
槐里県に治所を置くも、
陵廟を有すことから独特の号を保つ。
魏晋はその号を廃して扶風郡とする。
位
(前漢)
一人、秩二千石(百官志では中二千石)。
(後漢)
一人、秩二千石。
職掌
(前漢)
長安城内に府を構え、諸県を分治する。右扶風を治すことは、
太守と同じく。
牧畜の所在する地であり、苑師(馬牧、騎兵)を有すため、畜官に擬えられた。
また、朝請に奉じ(
奉朝請)、朝議に参与する。
(後漢)
民を治め、賢を進め、功を勸め、訟を決し、姦を検めることを掌る。
他
太守と同じく。
属吏
右扶風丞
(前漢)
二人、秩六百石。
(後漢)
一人、秩六百石。
属官(前漢)
一人、秩比二千石。
郿県に治す。
武帝元鼎四年に置く。
元帝建昭三年、秩二千石に増す。
右扶風の
牧苑を管理する官であろう。
後漢での置廃は不明。
尹翁歸伝には、翁歸が罪の決した
豪強を掌畜の官に輸り、使して莝(まぐさ)を斫らせ、その行程の数を以って責とする刑に下したことが記される。翁歸は代人を許さず、程に当たらずば笞によって督した。極めつけにはその鈇(なた・まさかり)を以って自剄る者もいた。
一人。
有り。
属官(後漢)
一人、秩比二千石。
安帝永初四年、置く。治所は
雍県。
涼州は羌に近く、しばしば三輔を犯したことから、将兵が園陵を衛護した。その治所から俗に
雍営と称される。
献帝中平六年に省き、
漢安都護に替わられる。
一人。
属県(前漢)
戸21万6377、口83万6070。
属県(後漢)
戸1万7352、口9万3091。
属県(晋)
戸2万3000。
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関連項目・人物
詳説
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最終更新:2015年01月25日 20:53